◆研究Ⅰ 地域における議論の〈場〉づくり◆
経済成長が至上の価値だった20世紀までは、国内外において、地域住民の意向があまり顧慮されないまま、土地の開発や資源の採掘、海洋の埋め立てや森林の伐採がすすみました。つまり、世界大の政治経済システムが成立し深まってきたこの5世紀ほどの間に、自然環境の破壊と、人びとの生活環境・社会環境の破壊とが並行して拡大していったわけです。この背景には、政治的・経済的なトップダウン型の決定と、それを支える社会的・国際的な仕組みがあり、それはいまも存在しています(『開発と〈農〉の哲学』参照)。
しかし、20世紀の終わりの四半世紀くらいから「持続可能な発展(Sustainable Development)」という考え方が国際的に重視されるようになってきました。その結果、世界大の政治経済システムのもとで、かつて植民地として搾取される側だったアジア・アフリカ諸国の発言権が増し、先進国だけが豊かな暮らしを享受する世界的な経済構造が疑問視されるようになってきたのです。
では、地球上の国が対等になるために政治上・経済上の格差をなくし、世界中の人びとが平和のなかで暮らしていける、そんな未来社会をつくっていくには、いったいどんなことが重要になってくるのでしょう?
この問いについて考えるとき、ひとつの解として考えられるのは、トップダウン的な開発の決定が自然・生活・社会環境の破壊につながってきたのなら、国内外において、地域の人びと自身が、地域の未来を自分たちで決めていくことのできる社会の形成が重要なのではないか?という点です。
しかし、合意形成を図るには、地域の人びとが、ふだんから自由に語り合うことのできる〈場〉や雰囲気がなければ難しいのが現実です。
わが国の事例でいうと、たとえば公共事業はいまも、トップダウン型の政策決定により行われ、市民の意見が優先される事例はあまり多くありません。地域住民の自然環境・生活環境を破壊してきた公害もまた、その多くが、いまだに解決していません。2011年の3月11日に発生した原発公害を経てもなお、生活環境を破壊された地域の人びとが置き去りにされ、分断され、問題が根本的に解決されないという社会のありかたに、あまり変化は見られません。
そのような状況になってしまうのは、なぜなのだろうか?
そういう疑問をもとに、環境哲学研究室では、地域での調査や文献研究を重ねてきました。そして、その理由として、第1に、そもそも、市民参画のしくみが弱いからではないだろうか、第2に、地域に何か課題があったとしても、住民自身がその問題についておたがい気軽に話し合えるような〈場〉が少ないがために、未来社会を考える機運が高まらないからではないだろうか、そう考えるようになりました。
こうした仮説をもとに、地域の方がた自身が、地域の未来について自由に語り合える〈場〉があることの意味を、持続可能な社会の構想に必要な視点ととらえ、研究を進めてきました。
こうした問題意識は、地域での調査をつうじて得てきたものです。
では、具体的にどういうプロセスで気づきを得たのか、という詳細については、左側の地域名を、上から順に(青森県大間町から順に)クリックしご覧いただけたら幸いです。
(2024年3月15日改訂)