【調査研究Ⅰ】学びの調査地⑦ 静岡県御前崎市
「原発反対とは言わないですよ。もっと議論がね、自由に話ができる町って。」
福島第一原発事故が起こったとき、私が読んだことのある関連本は、田中三彦さんの『原発はなぜ危険か――元設計技師の証言』(岩波新書、1990年)だけでした。修士課程の頃に読んだのを覚えてはいますが、なぜ読んだのか、という動機が思い出せません。郷里に川内原発があり、しかもその近くの北薩地域で、地震が頻発していたから、だったのかもしれません。
いずれにしても、当時の私は、原発というものについて、このとおりかなり勉強不足でした。そこで、2011年の夏ごろから、いろんなイベントに出かけては学びを求めていました。そして、夏に開催された「終焉に向かう原子力」という集会に参加した際、「浜岡町原発問題を考える会」の伊藤実さんと初めてお会いしたのです。
そして、それから5年後の、2016年の9月。御前崎市(旧浜岡町)にある伊藤さんのお宅に初めて伺い、いろいろなことを教えて頂きました。
伊藤さんは、大学進学のため上京され、仕事を辞めて地元に戻ってくるまでの10年ほど、故郷を離れていました。その間に、浜岡町に原発ができるらしいという噂を聞き、お父さん、おじいさんに「土地を売ってはいけない」と、理由も含めて手紙を書かれたそうです。
ところが、土地の値段が30倍ほどに値上がりし、周囲の土地がどんどん売られていくなか、お父さんとおじいさんが土地を売るまいと頑張っても、地域の有力者たちに自宅まで押し掛けられ、土地を売るよう夜中まで圧力をかけられ、とうとう手放してしまったそうです。
そして、山を崩すほどの大工事が行われているとき、伊藤さんご夫妻は郷里に戻られます。会社を立ち上げ、試行錯誤しながら事業を軌道に乗せていくと同時に、子育ての真っ最中ということも相まって、忙しい毎日を過ごされます。
郷里で家業を興されたことから、地域のいろんな集まりごとや行事にも積極的に参加されていた伊藤さん。ところが、いろんな会合の場で繰り広げられる原発の話題についてだけは、どうしても違和感があったそうです。「原発と原爆は一緒だからやめたほうがいい」と伊藤さんが意見しても、「伊藤はおかしい」「平和利用の何が悪い」「地域が潤うのだから」と、しまいには「お前は黙っておれ」と言われる始末だったそうです。
井戸端会議で「おかしい」という地域の方たちも、会合では口を紡ぐ。友人の間では「おかしい」と議論になっても、町のなかでは、30代の若造が何を言っても通らない。どうも自由に意見が口にできない空気になっている・・・そう感じた伊藤さんは、有志で「住みよい浜岡を築く会」をたちあげ、自由に議論できる時間と空間をつくろうとします。そして、新聞の折り込み広告で参加者を募り、集会を開こうとします。
ところが、そうしたところに、ふだんから伊藤さんの原発に関する意見を聞いている町の有力者や議員がおしかけ、圧力をかけてきたそうです。伊藤さんたちは、自由にいろいろ語りたかっただけで、なにも反原発のための集会を開こうとしていたわけではないのに、圧力をかけられる。そうした状況に嫌気がさした当時、伊藤さんが感じていらしたのが、冒頭の「原発反対とは言わないですよ。もっと議論がね、自由に話ができる町って」という気持ちだったのです。
そんな煮え切らない気持ちを抱えて以降、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故、阪神淡路大震災と、原発の安全性に疑問符の付く事故や自然災害が発生します。それでも、行政の側が行う講演会では、原発は安全だという専門家しか呼ばれない。おかしいと思った伊藤さんは、1995年、有志のみなさんと一緒に「浜岡町原発問題を考える会」を立ち上げ、安全性について問題視する意見の研究者を招いて講演会を開いたり、会でブックレットを出版したりと、原発を「考える」ための活動を続けてこられたのです。
そして、2011年3月、福島第一原発事故が起きました。政府からの要請で浜岡原発は稼働を停止しましたが、他にもおおきな動きがありました。それは、おとなりの牧之原市議会による「永久停止宣言」(2011年9月26日)です。これは、牧之原市にあるスズキ自動車の鈴木修会長が、再稼働するなら工場を移転させると仰ったことがおおきな原動力となったそうです。企業にとっても、まんがいち原発事故が起こって工場が稼働できなくなったら大きな損失なので、そのようなご発言になったのだろうと思います。
いろんな思いが交錯して、伊藤さんたちの思いが結実した結果となりました。しかし、伊藤さんはけっして満足されたわけではありません。使用済み核燃料が浜岡原発でたくさん保管されているなかで、南海トラフの地震が起こったら、たいへんなことになるからです。
いろんな立場の住民が意見を交わす場をつくりたい。そういう思いで活動してこられた伊藤さんの願いは、住民の側から、原発について考えて答えを出すこと、そして、原発に頼らない地域を考えていくことであり、その結実はまだまだこれからなのです。
いろんな立場の住民が集って「考える」場を何とか作ろうと尽力されてこられた伊藤さん。そうした伊藤さんの実践と対話にかんする考え方から、たくさんのことを学ばせて頂いています。
※伊藤さんのインタビュー記録も、前の科研費の中間報告書に掲載させて頂いております。ご希望の方は澤までご連絡ください。
(2024年3月16日掲載)