♦新しい量子物質の探索

 遷移金属化合物における新しい量子物質(Quantum Materials)を開発することをテーマに研究を行っています。量子物質とは、古典的な物理学の範疇では扱うことのできない物理現象を示す物質群のことで、主にクーロン力により電子のもつれが生じることで複数の自由度(電荷、スピン、軌道など)が出現します。これらの自由度が独自の格子トポロジーと組み合わさることで、超伝導や量子スピン液体などの新しい電子状態を創発します。このような電子状態をもつ物質は、物理学的な興味を超えて新しい機能性材料として社会に波及する可能性を秘めています。



♦固相メタセシスが拓く未踏の準安定量子物質

 イオンをどのように配置すれば、材料に量子物性をもたらすことができるのでしょうか?新しい量子物質の開発のためには、物質の形成・構造・特性を十分に理解し制御する必要があります。固体化学反応の多くは拡散によって制限されるため、高温反応を必要とします。そのため、熱力学的平衡状態によって相が選択されます。しかし、明らかに熱力学的平衡相図上の枠組みを超えた準安定材料は熱力学的安定相と同程度に存在するにも関わらず通常の固体化学の範疇で得ることは困難でした(ここで、「準安定」とは、即座に分解するようなものではなく、分解のための活性化エネルギーの高さのよって保護されたダイヤモンドのように長い年月のスケールでその構造が保たれる物質のことを想定しています)。そのため、新しい量子物質を探索し、その機能を利用するためには、物質探索空間を拡張する新しい化学的手法が求められています。
 最近、香取研究室では物質探索空間を拡充する手法として2種類の化合物が成分を交換して新たに2種類の化合物に変化する「固相メタセシス」に焦点を当てています。固相メタセシスにおける反応の原動力は、アルカリ金属やアルカリ土類ハロゲン化物などの副生成物の生成により放出される反応熱であるため、従来の高温反応よりもはるかに低い温度で反応を促進させることが可能です。これにより、従来の高温反応では実現不可能な反応経路を速度論的に選択し、最終的には極限環境を不要とした準安定相の創出を可能にします。究極的には、有機分子の合成のような化学反応の合理的な設計により革新的な準安定量子物質を効率よく得る手法の確立に挑みます。

これまでの博士論文・修士論文・卒業論文テーマ

♦研究トピックス

量子スピン液体の実現に向けて

 量子スピン液体(QSL)は、物性物理学において待ち望まれていた状態の1つです。これまでは反強磁性スピンが全ての磁気結合を同時に満たすことができない幾何学的フラストレーションのある系が、主なQSLの研究舞台でした。しかし、厳密に解くことのできる多体模型ではないため、幾何学的フラストレーションの研究には多くの制限がありました。この様な状況の中で、2006年にAlexei Kitaevによってハニカム格子上のスピン1/2が結合依存のイジング強磁性結合を通して相互作用する代替モデルが理論的に考案されました。ハニカム格子の3つの最近接結合は、その容易軸が他の2つと直交しているため、3つの間に競合が生じ、強いフラストレーションが発生します。この基底状態がQSLであることは、実スピンの分数化を表す4種類のマヨラナフェルミオンによって厳密解として導出されます。マヨラナ・フェルミオンとは、粒子と反粒子が同一である風変わりな粒子で、物理学の基礎の面から非常に興味深いだけでなく、量子計算に大きな進歩をもたらす可能性があります。Kitaevモデルは当初は理論研究のみにとどまる“机上の空論”でしたが、Ir4+酸化物におけるJeff = 1/2モーメントの化学結合依存性から、Kitaevモデル実現の道が開かれました。
 最近、当研究室ではソフト化学を用いてβ-Li2IrO3のLiイオンをZn2+イオンで置換して合成したβ-ZnIrO3においてQSL的な振る舞いを見出しました。また、新物質CdIrO3における結晶構造と磁性の関係性から、三方晶結晶場がKitaevモデルの実現を阻害するパラメータであることを実験的に発見しました。このプロジェクトの目的は、スピン液体基底状態およびそこで創発されるマヨラナ・フェルミオンの性質の理解を深めることができるような理想的な新物質の開発を行うことです。Ir4+化合物だけでなく、Co2+やPr4+化合物のようなごく最近Kitaev磁性の実現が予言された系にも物質探索の幅を拡大して新物質合成に日々取り組んでいます。



スピンと軌道の強い結合が紡ぐ多彩な量子相

 t2g軌道に5個の電子を持つモット絶縁体では上記のKitaev磁性が実現しますが、スピンと軌道の絡み合った状態は(t2g)5電子状態に限定されるものではなく、様々な電子数に対応して豊富な種類の相を生み出すことが期待されます。例えばt2g軌道に1個の電子を持つd1モット絶縁体(Re6+, Mo5+, Nb4+, Zr3+など)は、スピン角と軌道角のモーメントが完全に打ち消され、磁気双極子モーメントが「ゼロ」(=0)になります。そのため、電荷四重極や磁気八重極といった、高い多極子によって特徴づけられる"隠れた秩序"が期待されます。また、t2g軌道に4個の電子を持つd4モット絶縁体(Ru4+, Ir5+など)では、フント結合によって局所的にS=1とL=1のスピンモーメントおよび軌道モーメントの両方がが生じ、磁気双極子モーメントのないモット絶縁体が実現します。その状況で、三重項状態が強く相互作用することで、磁気励起の凝縮相が生じます。
 最近、当研究室では新しいダブルペロブスカイト型d4モット絶縁体SrLaGaRuO6において、励起子を媒介とする新奇なスピングラスの発見に成功しました。このプロジェクトの目的は、スピンと軌道が絡み合う特異な量子相を実現する新物質の開発を行うことです。スピン軌道結合状態は、主には4dおよび5dの遷移金属化合物で実現されますが、電子状態に注目すると3d電子においても八面体配位d7(t2g軌道に5つのd電子, eg軌道に2つのd電子)のCo2+ではJeff=1/2状態、電子配列四面体配位d8電子配列(t2g軌道に4つのd電子)のNi2+ではJeff=0状態が実現します。上記の固相メタセシスを用いて、これらの電子状態を有する新物質の開発に挑戦しています。



スピンフラストレーションによって創出される量子エンタングルメント

 スピンフラストレーションとは、ある種の磁性体において、磁気モーメント自身の正三角形を含む幾何学的な配列パターンによって生じる磁気モーメント間の競合的な相互作用により、無数に縮退した磁気基底状態を生じる効果です。この効果は、従来とは異なる基底状態の出現やスピン波などの集団励起の出現などのさまざまな興味深い現象を引き起こす可能性があります。多くのスピンフラストレーション物質が、スピン液体やトポロジカルなスピンテクスチャのような従来にない基底状態を示すと考えられていますが、これらの状態の正確な性質は、関与する相互作用の複雑さゆえに、しばしば決定することが難しくなっています。
 もうひとつの未解決の問題は、これらの系における量子ゆらぎの役割です。多くの場合、フラストレート磁性体では、量子ゆらぎが従来の磁石に比べて非常に強く、長距離秩序が抑制され、新しい現象が出現する可能性があります。しかし、スピンフラストレーションのかかった系における量子ゆらぎの役割を包括的に理解することは、まだ研究の途上にあると言えます。
 これらの未解決問題を解決するために、新しいスピンフラストレート磁性体を開発することが急務となっています。最近、当研究室ではCoイオンがカゴメ格子を形成する新物質の開発に次々と成功しています。これらの磁性体では、擬似的な量子スピンが強いジャロシンスキー・守谷相互作用によって傘状のスピンテクスチャを有する磁気基底状態を安定化させ、150Oe程度の低い磁場で層ごとのテクスチャの交互配列が反転する興味深い現象を示すことが明らかになっています。



新しいスピネル化合物における量子相の開拓

 スピネル(尖晶石)は、化学組成MgAl2O4で表される鉱物です。Mgは4つの酸素に、Alは6つの酸素に配位されてそれぞれMgO4四面体およびAlO6八面体を形成します。AlO6八面体は互いに辺を共有しながら三次元ネットワークを形成しています。MgAl2O4と同様の結晶構造をするスピネル型化合物では、磁性イオン周りの八面体が頂点共有することにより形成される三次元的なネットワーク(物性物理の世界ではパイロクロア格子と呼ばれています)を形成することにより電子・磁気的な相互作用が拮抗し新奇な量子相の実現が期待されているため、古くから盛んに磁性研究が行われています。たとえば、Fe2+イオンがパイロクロア格子を形成するGeFe2O4では隣あうスピン間が互いに反並行に向けようとする力が格子全体で拮抗することで特異なスピンのガラス状態が形成されます。
 このような単純な組成から、近年では新物質開発は難しいように考えられており、長年スピネル構造の物質探索は停滞していました。しかし、最近当研究室では速度論的な反応プロセスを用いて、新しい硫化物スピネルZnTi2S4の合成に成功しました。本物質では、電子の自己組織化前駆現象という特異な電子状態を見出すことができました。
 また、スピネル化合物ではパイロクロア格子以外にも新しい研究舞台が広がっています。例えば、四面体サイトに磁性イオンが配置されるとダイヤモンド格子とよばれ、スピン間の相互作用の拮抗によってトポロジカルなスピンテクスチャの実現が予言されています。また、パイロクロア格子を交互に拡大縮小させることで孤立四面体(0次元)とパイロクロア格子(3次元)の量子臨界点を作り出すことができます。このような条件を満たす化合物はこれまであまり報告されていませんが、当研究室で開発した速度論プロセスを巧みに利用することでよいモデル物質の創出に挑みます。