「世界のブリヂストン」を決定づけた世界最速のF1タイヤを開発 F1解説者・タイヤエンジニア 島裕英さん 大学院工学研究科

モータースポーツのタイヤを開発する仕事に30年以上携わってきました。ブリヂストンのタイヤエンジニアとして、国内の自動車レースに始まり、欧州(F2、F3000、DMT、ルマン24時間)、アメリカ(インディ500など)での活動、そして、世界最高峰のF1にも参戦することができました。
その後、59歳のときにフェラーリのレーシングチームに移籍し、タイヤの技術アドバイスの仕事に従事。現在は、日本に戻り、F1レースの解説の仕事をしながら、国内のレーシングチームMediaDo Kageyama Racingの技術アドバイザーも行っています。
私の歩んできた道を振り返りながら、これからのエンジニアに求められるものについて、お話ししたいと思います。

農工大入学~研究活動

高分子物理の研究室に所属

私は、東京農工大学工学部で高分子物理学を学んでいました。高分子……というと複雑そうですが、繊維やゴム、プラスチックの基礎研究につながる学問分野だと考えてもらえばいいでしょう。この分野に興味を持ったのは、繊維会社に勤めていた父親の影響があるかもしれません。

高分子を扱ういくつかの研究室の中から、高分子物理学の研究室を選んだ理由は実に単純でした。それは、電子顕微鏡で見た高分子の結晶の画像があまりに美しかったから。たしか、ポリエチレンの6角形の単結晶だったと思います。その美しさに魅了され、肉眼では見えない分子の世界にもっと近づいてみたいと考えたのです。

電子顕微鏡の分解掃除で学んだもの

研究室時代のエピソードとして、忘れられないのは電子顕微鏡の分解掃除です。私が所属していた研究室の担当教授は、その分野の世界的権威で、いくつかの国立大学にしかないような性能の高い電子顕微鏡を持っていました。通常、こうした精密機器は、製造会社にメンテナンスを任せるのですが、教授は彼らより技術レベルが高かったので、分解掃除も研究室で独自に行っていました。
学生たちで顕微鏡を分解し、掃除をして、組み直すとどこかおかしい……。おそるおそる教授に確認してもらうとカミナリが落ちる。そんな作業を繰り返したおかげで、電子顕微鏡の構造を詳しく理解することができました。これは、自分で使う道具の構造くらいしっかり理解しておくのが当然という技術者の基本姿勢のようなものをここで叩き込まれた気がします。
また、少し詳しい話だと、高分子物理学の研究で用いた「粘弾性」を理解するための公式は、その後、自動車レースで使うタイヤのゴムや車のサスペンションの研究にも応用できました。こういった発見も物理を応用した基礎研究をする醍醐味といえるかもしれません。

就職活動~就職

タイヤメーカーを志望

工学部卒業後、大学院に進学し、高分子物理の知識を深めた私は、どんな業界に就職すべきか迷っていました。繊維会社に勤める父親の背中を追いたくないという気持ちもあり、私が目をつけたのがタイヤの会社。タイヤには繊維やゴムが使われているので、学んできた知識が丸ごと活かせると考えました。そこで、日本におけるトップメーカーだったブリヂストンの入社試験を受けることに。美術に造詣が深い文化的な社風にも魅力を感じました。

タイヤの設計部門からモータースポーツ部門へ

1977年に、私はブリヂストンに入社しました。材料開発の部署を志望したつもりでしたが、1年目に配属されたのはタイヤの基礎設計部門。これには驚きました。大学時代に製図の基礎は学んでいましたが、それが就職先で活かされるとは思いもしませんでした。
実際、日本の企業は新卒学生を専門職として採用することはしません。そういう意味では、大学時代は専門的な研究テーマに取り組みながら、幅広い教養を身につける努力も必要なのかもしれません。

その後、1981年に私はモータースポーツ部門への異動を命じられます。当時、私は自動車レースのことはまったく知らず、有名レーサーの名前すらわからない状態。ここが、F1という世界最高峰の舞台につながる入口になるとは、夢にも思いませんでした。

世界を舞台に活躍

宿敵ミシュランとの戦い

新しい部署で私はレーシングタイヤの設計・開発を任されました。ここで、材料のゴムを始めとしたタイヤの専門的な知識を格段に深めることができました。
仕事の環境も激変しました。ブリヂストンのレーシングチームは、国内レースを皮切りに、1981年からヨーロッパのF2に参戦。順調に成績を残します。しかし、翌1982年、私たちはミシュランという大きな壁にぶち当たるのです。
ミシュランは、フランスが誇る当時世界シェアNo.1だったタイヤメーカー。レーシングタイヤの世界でも圧倒的な技術力の高さを誇っていました。ミシュランのタイヤはコースを数十周走ってもタイムが落ちない。しかし、ブリヂストンのタイヤは数周でどんどんタイムが落ちていく。なぜなのか? 頭を抱える私たちにとって、ミシュランのタイヤは「魔法のタイヤ」に見えました。

分子レベルで新材料を検討

しかし、ここからがエンジニアの腕の見せどころです。まず、私たちはレース後のタイヤを入念に観察しました。レースの途中でタイムが落ちるのは、タイヤのグリップが悪くなるから。その原因は、ゴムの劣化にあると考えました。そこで、関連会社の日本合成ゴム(現・JSR)と共同で劣化のデータを検証し、新しいゴム素材を開発。耐熱性、耐摩耗性の両面でどの物性を上げるべきかを分子レベルで細かく検討し、試作を繰り返しました。そして、ミシュランに屈辱的な負けを喫してから3年後の1984年、ついに納得のいくタイヤが完成しました。

世界最高峰のF1レースに参戦

新しいタイヤのお披露目となる日本の鈴鹿サーキットでのF2レースでブリヂストンのレーシングチームはぶっちぎりの優勝。これを機にブリヂストンは俄然強くなります。そして、1993年のインディ参戦を経て、1997年についにF1の舞台へ。その後、1999年から2000年にかけての2年間は、F1の全チームにタイヤを供給する「ワンメイク」の黄金時代に突入します。
そして、2001年、宿敵ミシュランがF1参戦を表明するとそこから2006年までの6年間、熾烈な開発競争が繰り広げられます。エンジニアにとって、たまらない時間でした。

次世代エンジニアへのメッセージ

英語力より伝えたいというパッションが重要

私は、1997年から2010年まで14年間、ブリヂストンF1チームの技術部門の総監督を務めました。この世界最高峰の舞台で私は本当に多くのことを学びました。ヨーロッパ中心のF1の世界において、異端児だったブリヂストンのチームは、優れた技術力を世界に認めてもらえたことで、対等に評価されるようになりました。私もこの14年間で、海外のトップチームのドライバーやエンジニアとFace to Faceで関係を築いてきました。F1の世界の共通語は英語。しかし、海外のパートナーと通じ合うには、堪能な英語力より、本気で伝えたいと思うパッションが重要だと痛感しました。これは、自動車レース以外のどの業界でも共通するものだと思います。

フェラーリのレーシングチームに移籍

2012年、当時59歳だった私はタイヤに関する「技術」を武器に、「スクーデリア・フェラーリ」という世界的チームでタイヤの専門家としてのポジションを得ることができました。3年間の任期を終え、日本に帰国した現在は、F1をよりわかりやすく解説する仕事やタイヤの技術的アドバイスをする仕事に取り組んでいます。積み上げた経験は、すべて私の財産になっているのです。

「技術」があれば、世界中どこでも戦える

誰にも負けない「技術」があれば、世界中どこへ行っても闘うことができます。これから大学で学び、エンジニアを目指すみなさんは、自分の価値をグローバルな舞台で試すことが求められるでしょう。ぜひ「日本の技術力がナンバーワンである」という気概を持って、世界に羽ばたいて行ってください。

Profile

浜島裕英さん HAMASHIMA Hirohide

1952年、東京生まれ。東京農工大学 大学院工学研究科修了。1977年にブリヂストンに入社。その後、モータースポーツタイヤ開発室長として、20年以上にわたり、F2、DMT、インディ500、F1など世界的レースの最前線で活躍。2012年、イタリアのレーシングチーム「スクーデリア・フェラーリ」のビークル&タイヤ・インタラクション・ディベロップ・ディレクターに就任。現在は、国内のレーシングチーム「MediaDo Kageyama Racing」の技術アドバイザー、F1レース解説者として活躍中。

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