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3月18日 |
製糸機械の変遷 その1[繰糸機(丑首から多条機まで)]
蚕の繭から生糸を作る技術を製糸と言いますが、我が国では江戸時代の享和、文化頃19世紀初頭に農業技術書のうちの蚕書が100冊刊行され養蚕・製糸の技術を伝えています。その初めが丑首です。
幕末の開国を期に輸出を始めた生糸は富岡製糸場などの仏伊の製糸技術を我が国流に咀嚼し、昭和初期には多条繰糸機を実用化して生糸を輸出商品として大成させました。
この時期の繰糸機の変遷をお話します。 |
三戸森 領夫
(元農水省横浜農林規格研所長、日本シルク学会名誉会員) |
2月18日 |
健康寿命と介護用具 その2
日本人の平均寿命は男女とも世界トップレベルにあるが、同時に被介護者も年々増大している。望ましい寿命とは自立して生活できる健康寿命であり、健康寿命を延伸して平均寿命との差を縮小することが重要である。そのための延伸策・介護予防について考察すると共に、演者が19年間に携わってきた被介護者のための介護用具についても解説する。
今回は介護用具について。 |
岩島 寛 |
2014年1月21日 |
埼玉県の蚕糸・絹文化をめぐる小さな旅~養蚕・織物で栄えた町をたどる~
秩父銘仙・川越唐桟・行田の足袋・加須の藍染・熊谷友禅など埼玉県には織物関連の地場産業がまだ多く残ります。 渋沢栄一、尾高惇忠など富岡製糸場開場を支えたのも埼玉県人でした。神川町には横浜の生糸王・原善三郎の生家もあり、入間市にはクリスチャン一族が経営した製糸会社の西洋館と教会が残っています。
また、年間600万人の観光客が訪れる川越の蔵造りもその多くは織物商の店蔵でした。それらを訪れるバスツアーを埼玉県観光課と共催してきました。スライドをみながら一緒にお出かけいたしましょう。 |
藤井 美登利
(NPO川越きもの散歩代表/東京国際大学非常勤講師(観光ガイド実習)/川越の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人) |
12月17日 |
健康寿命と介護用具 その1
日本人の平均寿命は男女とも世界トップレベルにあるが、同時に被介護者も年々増大している。望ましい寿命とは自立して生活できる健康寿命であり、健康寿命を延伸して平均寿命との差を縮小することが重要である。そのための延伸策・介護予防について考察すると共に、演者が19年間に携わってきた被介護者のための介護用具についても解説する。
今回は主に健康寿命について。 |
岩島 寛 |
11月19日 |
大事なことは、みんな繊維機械の向こう側で起こった~絹都パターソン・ストライキの100周年~
人口減少社会に転じた21世紀の最初の10年が日本の歴史の転換期として記憶されるであろうことは異論のないところだろう。では、その前の「転換点」はどこにあったのだろう。演者は、この転換期を乳児死亡率が下降に転じた大正中期にあると考える。この時期に工場法が制定され、その後、労働基準法がもたらされた。そして、こうした経緯のほぼ「すべて」が繊維産業を現場として起こったといっても過言ではない。 労基法の起点ともいうべきパターソン・ストライキの100周年にあたる本年、発信地としての繊維産業や繊維機械の現場について考えてみたい。 |
高橋 さきの |
10月15日 |
生糸検査の技術
消費者が購入するシルク製品の生産地とその原料(生糸)の生産地が同じ地域にある場合にはそれなりに解決できる商取引上の問題も、地域が離れている場合には重量、品質をお互いに承知していることがクレームをなくす最良の方法になります。
そこで生まれたのが第三者機関による生糸検査です。特に国際間の生糸取引には国際的なルールによる生糸検査は欠くことができません。終戦後まで我が国の主要な輸出品目であった生糸の輸出を支えた生糸検査の技術について紹介します。 |
三戸森 領夫
(元農水省横浜農林規格研所長、日本シルク学会名誉会員) |
9月17日 |
繊維産業の俯瞰
日本繊維産業の事業所数、出荷販売額、従事者等の実態を業種毎に考察し、業界の現状を分析する。また、繊維品の輸出入額から、我が国繊維産業の対輸入力を考える。
更に、繊維各社の業態の多様化、多角化の現状に触れ、その経営上の評価を紹介する。 |
高井 英雄 |
7月16日 |
「青梅地域の繊維産業の盛衰」~その中でブランド確立を目指す~
関東平野の北部から西部、西南部にかけては、繊維産業が重要な位置を占めていたことがありました。しかし、現在は数えるほどの企業がかろうじて経営している状況です。
青梅の一中小企業、梅花紡織(ホットマン)株式会社にて46年間奉職し、今の結果を実践・体験しましたことを整理・分析することで、僅かでも繊維産業の生存・成長に資することになればと思い、お話しさせていただきます。 |
永井 徹 |
6月18日 |
紡績体験のあれこれ
宮崎県日向市の旭合繊㈱、アクリル短綿紡25,000錐の紡績工場、操業3年目でようやく軌道に乗ったところで第2工場を増設、私の勤務する第1工場は操業3年目とはいえ戦力半減、そのハンディもお構いなく工場長からは増産指令、さまざまな問題を解決してきた体験。
およびインドネシア インダチ アクリル梳毛紡 4,800錐の工場。
言語、習慣のちがう異国の地でここも操業3年目の工場、日本では味わえない体験をしてきました。・・・これらを紹介します。 |
西村 俊勝 |
5月21日 |
エアジェット織機開発の100年間をたどる
100年前にアメリカのブルックス(J.C.Brooks)が発想し、試作を重ねた「空気流でよこ糸を挿入する」いわゆるエアジェット織機(Air Jet Weaving Machine)は、その後、長い試行錯誤の時代が続いた。1960年代半ばにオランダのテ・ストラーケ(Te Strake)社が考案した技術によって、ようやく実用化が進んだ。1980年代以降、主に綿や綿・化合繊混紡織物分野に大量に導入されている。日欧の繊維機械メーカーがエアジェット織機の開発改良をリードしてきたが、多くの中国メーカーが参入し始め、早くも過当競争の時代に入ってきた。リードし続けるためには、新しい「発想」が求められる。 |
葛西 成治 |
2013年4月16日 |
製糸界の元勲といわれた 速水堅曹(はやみけんそう)の生涯
まだ幕末の騒乱さめやらぬ明治3年(1870)、前橋藩の下級武士であった速水堅曹はスイス人の技術教師を雇い、
日本ではじめての器械製糸所を前橋につくった。彼は日本最高の製糸技術者となって、各地の製糸所設立を指導し、明治8年(1875)内務省に出仕してからは殖産興業政策の蚕糸業のオピニオンリーダーとして国の政策にかかわった。
官営富岡製糸所の所長もつとめ、横浜に生糸直輸出の同伸会社を創立した彼の志はなんだったのか?
近代日本の製糸業の黎明期から先駆者として世界一の輸出国となるまでを見届けた彼の生涯を語る。 |
速水 美智子
(富岡製糸場世界遺産伝道師協会・原三溪市民研究会 所属) |