〇コラム〇近代哲学の功と罪(ステップⅠ関連)
近代における、環境破壊的な社会経済構造の成立の背景には哲学がある・・・。これは、いったい、どういう意味なのでしょう?
自然環境は、たとえば中世ヨーロッパにおいては、神から与えられたものであり、そのしくみは神しか知りえない、人知を超えたものとされていました。しかし、そうした自然観は、二元論的な志向がつよまり、自然を操作の対象としてみるのが可能になった「機械論的自然観」(ホッブズなど)にかわっていきます。その結果、自然を資源的な価値をもつものとして、大量生産―大量消費型経済活動の道具とする自然観が成立していったのです。
もちろん、二元論的な見方には、私たちの生を豊かにした側面もあります。自然科学的な知識の深化と発展は、人類の生活を豊かにしてきました。また、考える私と外部のものとの二元論的な思考があったからこそ、私たちの身体じたいも操作の対象となり、医学が発達し、健康に暮らせるようになってきたのです。また、いろいろなことを考えるこの「私」という存在じたいが、のちに絶対的価値をもつと考えられるようになったからこそ、人間の尊厳という考え方もまた、基本的な価値として共有されるようになったのです。
これらの点は、強調してもしすぎることはない、おそらく今後もずっと重視されるべき、哲学の生み出した価値観だといえます。
しかし、一方で、機械論的自然観にもとづく自然を資源としてみる成長主義的な経済活動は、自然環境を破壊し続けてきました。同時に、近代では、人間の尊厳が、一部の人びと、はっきりいえばヨーロッパ系の人びとにしか認められておらず、市場経済がグローバル化していくなかで、ヨーロッパを中心とした「文明」国が「未開」地域を開発できるという考え方が強まっていきました。そして、植民地の獲得競争がはじまり、ネイティブ・アメリカンが住んでいた場所を追われ、アフリカの人びとが奴隷として自由を奪われる歴史が昂進していったのです。
このようなかたちで、おおくの人びとのいのちと生活環境・社会環境の破壊が正当化されていった植民地主義の時代には、実はそれを正当化しうる哲学があったのです。たとえばジョン・ロックの「労働価値説」によると、人間は、自らの労働によって生きる糧を生産し、自分のものとすることができる権利をもつるからこそ、その自由が侵害されてはならない存在です。個の価値観は、みなさんもご存知の通り、現代に続く人権思想につながります。
しかし、その説を裏返していえば、きちんと働いていない(ようにみえる)「未開」地域の人びとを「文明」国の人びとが教化されるのは当然だという考え方にもつながりえます。実際、ロックは、ネイティブ・アメリカンや自国内のホームレスにたいして厳しい意見をもっていました。国際法の父といわれるグロティウスも、「未開」の人びとが歯向かってきたら、それは法をもつ「文明」にたいする侵害行為であり、「野蛮」とみなして防衛戦争をしても構わないのだと考えていました。
いまでは、表立っての差別はかつてより弱まっていますが、いわゆる南北問題は、そうした負の歴史を引きずってきた結果だといえます。ですので、たとえば、いわゆる「発展途上」国のひとびとが、いまだにモノカルチャー経済に縛られている現実の背後には、残念ながら、近世・近代から現代にかけて「発展」してきた社会経済構造と、その「発展」に寄与した哲学における、思想的な要因もまた存在するわけです。
環境哲学研究室では、ここまでの文中であげた哲学だけでなく、ほかにも、社会システム論、公害問題などといった切り口もまじえつつ、どうすれば持続可能な社会を形成していけるかを考える際の基盤とすべく、こうした社会経済構造のもつ思想的背景を探っています。