生実記第四章

村田 実貴生 

 私は折に触れて、自らのことを文章に記してきた。 中学校卒業時までのことは、高校入学時に書かされた自叙伝で原稿用紙三十枚ほどに書き付けたので、ここでは、その後のことを書き記そうと思う。

 私の高校生活は、挫折から始まる。というと、「中学校までは一番だったのに高校に来た途端に成績が急降下した」というようなことを予想されるかもしれないが、そういうことではなく、入学の動機に訳があるのである。
 私の周りの一部では余りに有名な中学三年時の弁論大会の発表で、
「その人が同じ高校を志望していると知れば、共に入るのだと勉強をたくさんしようと思うものだ。」
というようなことを言ったのだが、それが入学前の心情を如実に表している。つまり、「女性を目的として受験勉強をしていた」といった状態であって、おかげで、一応はしっかりした目的があるから勉強には集中することができたのであるが、果たして、同じ高校に入り、同じホームとなったときに、入学前は「同じクラスになれば楽しいだろう」と思っていたのが、「余計に思いが募るばかり」ということが分かって、思いのやり場に困ってしまったのである。
 今になって考えれば、「世の中そんなにうまくいかない」ということなのだが、「恋は盲目」とはよく言ったもので、どうしようもない状況をどうしようかと悩み、とどのつまり、人に助言を求めることにしたのである。
 私を知る人は分かっているかもしれないが、私は余り人にものを聞かない。「人に聞く前に自ら考えろ」という育てられ方をされてきたので、今ではその親自身が呆れるくらいになってしまっている。
 そういう私が人に助言を求めるということは、助言を求める人の選択からしてもそうであるが、今から考えるに相当の精神状態であったろうと思われるのであるが、幸いにも丁寧な返信が来た。『信じるものに救われる』と言った状況であった。
 その人は、「「とその人の説明をしていくことは、それこそ三年前の二の前となるので差し控えるが、その助言は私を色々と考えさせた。
 そして、言わば、「人にやさしい恋」という考えに行き着いた。
 泣かせた女は数知れず、というのは、二枚目男の形容詞であろうが、ある意味では、これは私の形容詞なのであって、これ以上は同じ轍を踏むまい、と思うようになった。
 そして、八月十一日付で、変心を遂げることにしたのである。

 人が半ば本能のように思っていることも、実は思い込みなのではないかと最近は思う。例えば、性的欲求は本能のように思われているが、もしもそうならば、それこそ無意識に、女性を見ると飛び付いていくという状況が起こるのであって、それが起こらないということは、それは本能でないということなのである。大体、性的欲求が起こる際を考えてみれば分かることだろうが、多分、巧みな想像が起こっていることが予想されるのであって、このことは、心の作用で幾らでも抑えられるのに、抑えられないと思い込んでいる結果から、性的欲求が起こるのであろうことを導く。
 恋愛は理由がない、とされているが、これも実は、こういう人が恋するに値する人であるという考えで人を見て、それを満たした人を恋するが、その考えは余り気付かれることはない、実は気付いているのかもしれないが、何でその人を好きになったと聞かれた際にこうこうこういう理由でと説明したにも拘らず、その理由が受け入れられないということが起こったときにそれはその人の生き方の否定でさえあるので、そういう状況を避けるために、恋には理由がない、この言葉には傍から見るとその理由が理由らしからぬという意味もこもっているのだろうが、と思い込むことで、各々の生き方の否定を免れているのではないか。
 別に、ここで恋の神秘性を否定して読者を失望させるのが目的ではなくて、実は意識して決めているからこそ、その考えというものを「背が高い、顔がいい」とか「学歴がある、収入がある」もしくは「これくらいの人ならば、付き合ってもらえよう」という、「これくらい」とは何だという思いもあるが、現代の輪切り教育の反映みたいな考えでなくて、心で生きている人間というものが表れるような考えを持つことが必要だと言いたいのである。

 私の変心と言うのも、それを目指したのであって、言わば、「意識的な恋」という逆説に挑んだのであった。

 双輪五十二号の最後に、双輪に初登場となった私の文章が載っているが、「これ(弁論大会での一節)を言ってから九箇月ほど経つが、愛というものはどうも違うようだなあ、と感じるのである。」というのは、中学校までの生き方の否定であって、この「愛とは何か」という文章は高校での生き方の決意が表れているのである。

 それからのことは、書き記しても、読者には詰まらないと思う。恋愛ドラマに慣らされている読者は、どう落ち着くのかという駆け引きが面白いのであって、駆け引きのない私の恋は詰まらないに違いない。しかし、高校で目指したのは、「ちょっとした駆け引きでうまくいくような恋はちょっとしたことでうまくいかなくなるものだ。大体、どう自分を人に見せれば人が自分を好きになるかというなかなか滅多にうまくいかないことを考えていたからこそ互いの精神に悪い状況を生んだのであって、今度はそういう駆け引きには動じないような恋をしたのである。そういう意味で、私に決して恋をしない人を恋する、という逆説的な恋、それこそ言わば、『圧倒的に片思い』」であるから、人が詰まらないと言おうが、互いの精神にとっては最も良い(と私が思う)恋の形なのである。

 今まで、色々と理想家らしいことを書いてきたが、現実はやはり現実家寄りなのである。人も人一倍傷付けてきた。それも意識せずというところが質の悪いところであるが。
 それ故に、今までの文章は反省文であるとも言えよう。
 誰か「人は理想と現実との間をそのときそのときで位置を変えながら生きていく」と言った人がいた。過ぎたるは及ばざるがごとし、と言うから、こういう生き方も一理あるかもしれない。
 しかし、私は余りに現実的であるが故に、せめてもの償いのために、理想を追い求めていかなければならないと思うのである。今までも、これからも。


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