共帰り論

村田 実貴生 

 私の帰りは大概は一人である。時に、とある文系集団に巻き込まれて帰ることはあるが、それは全員が男であって、女性と帰ることはあまりない。
 一方で、一人で歩いていると、前にのろのろと歩く男と女がいたりする。気にせずにはいられないのであるが、平然を装って横を通り過ぎる。
 これを糾弾しても良いのであるが、万が一(というのは男一対女一の場合であって、対複数の場合はこれよりも割合が大きかろうから)、私がそうなった場合も想定して、ここでは共帰り(狭義では男一人と女一人が帰ることであるが、広義では複数の場合を含むことにする。でないとそれこそ文系集団の一人が命名した「実践なき空想恋愛家」になりかねないので。)の理想像を考えることにする。

「異性間の交友は明朗なものとし、他人から誤解を受けるような行為は慎む。」というのが生徒心得に書いてあったが、これが共帰りの心得を端的に表しているかもしれない。男と女が帰ると何かと気にされがちであるから、特に、別に付き合っている人がいるのに一対一で帰るような場合は、それこそ恋愛ドラマの題材になりかねないから、その三者(あるいは四者のこともあるか)が各々の気持ちを正しく知っていなければなるまい。例えば、私が彼氏持ちの女性と(万が一)帰る場合は、私の気持ちは女性に間違って取られないようにしなければならないし、女性も私が気持ちを間違って取って有頂天にならないようにしなければならない。そして、女性と彼氏との間には、それくらいのことでは(私といたくらいではまず大丈夫だろうが)揺るがない間柄を築き上げていなければならない。
 複数の場合は気にされないだけ気は楽であるが、心得に準じて共帰りをしなければならない。

 共帰りの利点は、「普段はなかなか知り得ない異性の心理を垣間見得ること」であろう。教室ででも話していればよいという意見もあろうが、時間に追われている今では自分はともかくとしても女性の迷惑になりかねない。その点、帰りというのは(二宮金次郎女もいるかもしれないが)帰るだけの時間であるから、互いに落ち着いて話せるのである。あと、時間が限られているから、あとどれだけ話すのだろうかという心配もさせない。
 人の心理を男性と女性とに分けるのは問題があるのかもしれないが、両者は異なると考えている人が多い(と感じる)今日では、そう分けるほうが、生活においては都合が良いし、現に両者は分かれて行動することが多いのであるから、異性の心理というのはやはり異なるのである。
 その分かれて行動するためになかなか知り得ない心理を多少なりとも分かることは、少なくとも、私のように女性の心理が分からずにひどい目にあった(あわせた方が多いか)人間の数、またはひどい目の程度を減らすのには役立とうと思う。

 女性と帰るとなると、出所の分からない罪悪感に駆られがちであるが、それは心得さえ踏まえておけば、何の罪もないことであろう。
 異性の心理というのは知っても知り過ぎるということはできないから、特に情報に疎い私のような人は、むしろ、「共帰り」の機会をつくるべきではないか。


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