高校は、大学へ行くための通過点で、勉強をしさえすればいい、というのでは人生を無駄に遣っている、と思ったのはそんなに早くないことだ。
なぜならば、最低でも高校を選ぶ際には自分で決めて入ったのだから。
と思うと、その頃から高校のそういう点を見て、高校を選んだと思われる人が、改めて素晴らしく思われる。
そういう人というのは、何度か手紙をもらう機会があったのだが、その文章には勉強などに忙殺されていない豊かな心が感ぜられて、受け取る側に問題があって余り現れてはいないが、生きるための糧とさえなっている。(だからこそ、そういう機会を故意につくろうとさえしていたりするのだが)
また、高校三年間で人生が決まってしまう、ということの意味を知らされた人でなく、知っていた人だとも言えよう。
高校生活は短いといっても、三年間ある。その三年間を勉強のことだけを思って生きるのと、人間はどう生きるべきかというようなことを毎日考えて生きるのとでは、違ってこようことは誰でも分かることであろう。問題は、その違いが大切であることに気付くかであるが。
それでも勉強だけをしようというのは、まだ心の豊かさよりも学歴社会の中での誉れに重きを置いているか、「文章表現能力は残念ながらあまり高いレベルとは言えません」という私の小論文テストの結果が当たっているかのいずれかだろうが、勉強をしなければならない、とは思ってしまいがちである。
といっても、その思いに埋もれていてはなるまい。何とか気付いてほしいと思う。人間のすべきことが分かった上で始めて勉強に価値があろうことを。
高校生とは、人生で何を学ばなければならないかを学ぶ者だ。これは自分に向けての言葉でもあろうが。