信仰と現実の間に

村田 実貴生 

 いつも、自分に言い聞かせるようにして、強い調子で文章を書いているので、この文章は少し気を楽にして書こうと思う。

 私がキリスト教を知り始めたのは高校に入ってからである。入学して間もなく、私は、入学前に思い描いていた予想と現実との大きな違いを知って、はけ口のない思いによって、心が暗くなっていた。その頃の思いは、その頃の作品にも表れていて、

   雨
 (前半略)
 悲しかったとも、寂しかったとも言えない、簡単に言えば複雑な、思いが、起こった時間は四時二十四分であった。
 街をひたすらに走った。
 雨は降っていた。

 こんなことがあってから、雨のしとしと降る日にぬれながらいると、いつもそのことを思い出す。
 あの時からであったのだ。崩壊、一人よがり、しばりつけ、人が言うには固執、そしてワガママ。
 そう思うと、あの時がなつかしくなる、戻れない、戻っても何をすればよいのか分からない、あの時。
 半年が過ぎた。いろいろとあったような気がするが、悪いことしかなかった、悪いことしかしなかった、日々が過ぎた。
 何を思い、何をしてゆけばよいのであろうか、分からない。
 答えがあるのか。私の心も、人の心も満足する、答えがあるのか。せめて、人の心だけでも満足する答えがあるのか。

 雨の降る日、私の心も雨が降っている。
 晴れの日、私の心は雨が降っている。

 そして、その状態に堪え切れず、とうとう人に助言を求めた。その際、ある人から本を幾つか紹介された。三浦綾子、言わばキリスト教文学の本であった。
 それから、生きる糧を得ようと、藁にすがるような思いで、暇さえあれば、いや、暇がなくても、作品を読み続けた。そうして、キリスト教を知り始めた。

 それ以来、その人と共に三浦綾子の作品は、心に安らぎを与えてくれた。どうして、と尋ねられてもすぐには答え返せないが、多分、温かいものが私の暗い心を癒してくれたと言い表わせるのだろう。

 そういう過程を経て、現在に至っている私であるが、情けないことに、誰からもすばらしく思われるような人間どころか、少しの人からしかすばらしく思われないような人間にさえなり得ていない。人にすばらしく思われるために生きている訳ではないが、自分でもすばらしく思えない自分を誰がすばらしく思おうか。けれど、この現実に甘んじている。
 信仰と現実の間に、という題をつけたが、信仰と現実の間に存在する空間があってはならないのだと思う。現実を信仰に近づけ、同じものにしなければならないのだ。
 そのためには、「神はいつも見ている」という思いを持ち続けなければならないと、信仰と現実の間で思うのである。


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