神とは何か

村田 実貴生 

 神がまつってあるという神社は至る所にある。私の登下校中にもあって、香の匂いを漂わせている。
 そして、毎日まいる人がいる、正月の時だけ初詣といって諸々のことを願ってまいる人がいる、厄年の時だけ厄払いといって災いが起こらないようにまいる人がいる、と程度の差はあっても、世の中の大半が何らかの利益を神に求めている。
 が、それらの人は神をどういうものだと思っているのだろうか。

 日本では昔から八百万の神がいるという。その中には狐や馬の頭まである。
 が、狐や馬の頭を含めて神が幾つもあってよいのだろうか。

 もっとも、八百万の神がいても私の助けにはあまりならないらしい。
 なぜならば、どこの神社にも賽銭箱というものがあって、まいったときにお金を入れることで願いをかなえてくれるそうだからだ。
 となると、お金のほとんどない私などの願いは聞き入れられないのだろう。
 が、神は金持ちだけを助け、貧乏は見捨ててしまうというものであってよいのだろうか。

<アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇もあるのに気が付いた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった>
と、新約聖書にはある。

 神とは、まとめて言えば、人間の浅はかな考えなどには一切とらわれないであるべきものだ、と思うのである。


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