文芸に思う

村田 実貴生 

 この誌を読むような人は、「文芸」をどのようなものと思っているのだろうか。

 文芸とは、今の自分の証を表したものだ、と思う。それ故に、人生をひっ提げた文章を書かなければなるまい。
 前号の五十二号などを読んでいるとそれが切に思われる。あの中に人生をひっ提げた作品が幾つあったろうか。
 作品の数が少ないこともあって、そういう作品も載せざるを得ないのだが、「芸」と付く以上は、文芸も芸術だ、ということは踏まえていてほしい。
 美術ならば、漫画の類は入るまい。音楽ならば、いわゆる歌謡曲やポピュラー曲の類は入らないのが普通だ。
 従って、文芸ならば、「人生をひっ提げない文章」は本来は入らないのだ。

 人生をひっ提げたような文章はあるにはある。が、そういう作品には、失恋に伴う暗い思いだけを表したものというのがやけに多い。
 文章を書く人間というのは、今の自分が満たされていないという思いを持った、例えば私のように生まれてから今までの十六年弱の間に女性と付き合った事がない、つまりは振られっぱなしの人生を送っている、人間が多いからそういうことになるのだろう。
 が、人に読んでもらうということからしても、読者に光を与えられるような文章を書かなければなるまいと思うのだ。

 大学生の時、あすなろ白書の掛居君を奈良県人にしたような人が好きだった。その頃つきあってた彼女と掛居君が別れたらしい、と富山に帰ってから聞いた。まもなく私の一生の友Mが掛居君とつきあいだした。そして突然入籍した。Mは、私が掛居君がずっと好きで、他の人とつきあってみてもやっぱり掛居君が好きだったことを知っていた。でも、Mは、大事な一生の友だから、Mには、「ま、ちょっとしっとかな」と感想を述べた。でも心の中は、波の高さ5mくらいだった。私は、実に 年間、掛居君だけをあつい思いでみていたけれど、それから数年たって、やさしい思いで好きになったり、感嘆の思いで好きになったりした。今は、掛居君夫婦(ほんとはそんな名前じゃないよ)と平気でお正月休みに会ったりなんぞ、している。

 これは、あるホームの学級通信の一部を借りたものだが、失恋について書くにしても、この「やさしい思い」を表してほしいと、今の私は思うのだ。

 自己の人生をひっ提げて文章を書き、一人でも良いから読者に光を与えようとする。これが、文芸であるまいか。


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