戻る

年表の解説

歴史の解説
720 養老4 日本書紀 日本における現存最古の歴史書。舎人親王らの撰による。神代の昔から持統天皇の時代までを扱う。愚かな争いの歴史よりロマンを求める向きには好評。
1450 宝徳2 グーテンベルグの活版印刷 活版印刷はグーテンベルグが初めてだが、木版印刷は8世紀の日本が、金属活字は1234年韓国が世界初。印刷が人々の啓発に役立っているか、堕落を助けているかはまだ結論がでていない。
1467 応仁元年 応仁の乱 将軍家や管領家の後継争いが原因で細川勝元派と山名持豊派とが争い,応仁元年から11年間,京都を中心に続いた戦乱。なお、京都西陣の名は,西軍の本陣がおかれたことに由来する。歴史とは愚かな人たちにより書き上げられると言う良き見本。
1543 天文12 コペルニクス太陽中心説の提唱 ポーランドの商都トルニ出身の天文学者で、地動説理論構築から約30年後の1543年「天球回転論」がニュルンベルクで出版された。本人の死後、流布されたので宗教裁判の災厄は逃れられた。なお、コペルニクスは本学の 姉妹校であるポーランドのヤギェウェ大学出身 、ローマ法王ヨハネ・パウロU世と同窓。
1543 天文12 鉄砲伝来 種子島に漂着したポルトガル人から種子島時尭が入手。伝来から僅か数十年で世界有数の鉄砲保有国となったが,その後江戸幕府は改良や製造を制限した。世界史には稀な自発的軍縮がなされたことはあまり知られていない。武器輸出を続ける欧米諸国に教えてやりたいものだ。
1582 天正10 グレゴリオ暦採用 ローマ法王グレゴリウス13世の時代、1582年10月15日に採用された。平年を365日、閏年を366日と定め、閏年を400年に97回置くことにした暦。現在世界の暦の体勢を占めている。どのような暦を使おうと、季節は巡り、時は経つ。愚者にも賢者にも。
1600 慶長5 関が原の合戦 この年の9月15日,石田光成方西軍八万数千と徳川家康方東軍七万五千が戦った日本史上最大の合戦。名実ともに徳川時代の幕開けとなった。     
1603 慶長8 江戸時代(1603-1867)始まる 徳川家康が征夷大将軍となり,300年の太平をうたわれた平和にして豊穣な,封建的暗黒時代はじまる。
1632 寛永9 ガリレオ地動説擁護のため宗教裁判 ガリレオ・ガリレイは、論文「天文対話」のなかで「地動説理論」を発表し、宗教裁判にかけられ、「地球は動いていない」と言わされた。しかし、死後350年たった1983年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は宗教裁判の誤りを認めた。そのためか在位26余年の84歳の長寿を全うされた。
1687 貞享4 ニュートン万有引力の法則 イギリスの物理学者ニュートンが発見した、あらゆる物体と物体のあいだにはたがいに引きあう力があり,物体に重さがあるのは,物体と地球の間の万有引力によるものだという法則。リンゴの落ちるのを見て発見したのは有名、 東京農工大学にはそのリンゴの木が毎年花を咲かせている。
1765 明和2 ワットの蒸気機関 スコットランド生まれのジェームス・ワットが発明した蒸気機関は産業革命の原動力として広く普及した。薬缶の湯気を見て、それを動力に利用するという先見性に脱帽する。湯気から熱燗を連想する某教授とは大違いだ。
1768 明和5 アークライト、水力紡績機発明 ランカシャー生まれのリチャード・アークライトが綿から綿糸を紡ぐ紡績機械をつくり、動力に水車を利用した。非熟練工で可能なため、工場生産が加速され、インド綿業の荒廃を招いた。
1774 安永3 杉田玄白と前野良沢、解体新書の翻訳 解体新書は日本最初の本格的西洋解剖学書の訳本で、ドイツ人クルムスの解剖書 (Anatomische Tabelle) の蘭訳本(俗称ターヘル・アナトミア1734刊)を日本語訳したもの。しかし、今なお腹の中が読めないとはどういう訳か。
1814 文化11 スチーブンソン蒸気機関車発明
ジョージ・スチーブンソンが初めて蒸気で機関車を走らせたとされているが,リチャード・トレビシックは1804年既に鉄製レール上を走る蒸気機関車を製作していたらしい。往古は物流の主流だったが今は郷愁を誘うのみ。石油が枯れたらどうするんだろね。
1827 文政10 オームの法則 ドイツの電気学者オームは「電流の強さは電圧に比例し、抵抗に反比例する」というオームの法則を発見。業績を讃えて電気抵抗の単位にオームが使われている。ちなみに麻原某とは何の関係も無い。
1859 安政6 神奈川・函館・長崎の開港 前年結ばれた米・英・露・仏・蘭との修好通商条約により神奈川・函館・長崎が開港され、外国貿易が盛んになった。これにより生糸輸出も加速された。後年横浜・函館・長崎が観光地として脚光を浴びる基を築く。
1866 慶応2 ノーベル、ダイナマイトの発明 スエーデン・ストックホルムに生まれたアルフレッド・ノーベルは爆薬ダイナマイトを発明した。なお、賢者ノーベルは生涯独身だった。
1867 慶応3 第2回パリ万博、日本初出品 江戸幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品。幕府は徳川昭武、 渋沢栄一 らをパリに派遣。サムライ、シャンゼリゼを歩く。
1868 明治元年 明治維新 倒幕から明治新政府設立までの新国家形成が進められた一連の政治的・社会的変革をいう。開国から西南戦争までを指すことが多い。体制の近代化を願う国ではしばしばモデルになっていると言うが、反面教師ではなかろうか。
1869 明治2 スエズ運河開通 フランス人レセップスが10年かけて作ったが,完成僅か6年後イギリスに買収されちまった。ホリエモンより凄腕がいたのだ。航路が喜望峰回りの半分に短縮され,以後の物流を変えた偉業。
1869 明治2 米大陸横断鉄道開通 アメリカ大陸の東西を結ぶ大動脈が完成。日本では西部劇の舞台ぐらいにしか思われていないが,これにより輸送の迅速化・低廉化はもとより,資材需要による他産業の活性化,組織や会計システムの改革整備,情報インフラの整備など以後のアメリカ経済の大躍進をもたらした大事業。
1871 明治4 地域の殖産開発と授産 明治政府は殖産興業の政策を実行するに際してそれぞれの地域にあった産業を興し、失業士族にそれらの生産に従事する機会を与えた。多くの地域で養蚕が奨励され、普及した。
1871 明治4 廃藩置県 維新後明治政府がそれまでの藩を廃止し、地方統治を府および県に一本化した政治改革。いわばお殿様のリストラである。
1871 明治4 岩倉使節団米欧回覧に出発 明治新政府の承認 ・不平等条約改正交渉の開始・西欧文明及び産業の視察 の3点を主要な目的として岩倉具視を全権大使とし,通商修好条約を締結した諸国を歴訪する大使節団を派遣した。いわゆる“外遊”のはしりであるが,議員諸兄のように遊んでたわけではない。
1872 明治5 ウイーン万博開会 この年ウイーンで開催された万博から日本政府が公式に参加した。後のジャポニズムの流行に影響を与えたとされている。これを契機に日本からウイーンへの蚕糸関係者の留学が続いた。
1872 明治5 学制 この年8月邑に不学の戸なく,家に不学の人なからしめんと学制が発布され,教育立国の基礎が築かれた。野球ばかりがうまくなったと言われる6・3制より貢献したと思われる。
1872 明治5 鉄道開通(品川ー横浜間) 9月12日、新橋と横浜(現桜木町駅)とを結ぶ鉄道が開通した。この年5月に品川・横浜間で仮営業した鉄道が新橋まで延び正式開業となった。日本鉄道史の開幕である。揉め事の到着も早められることとなった。
1873 明治6 岩倉使節団米欧回覧より帰国 使節団は多くの成果と貴重な体験を得て帰国,その後の我が国の発展に大いに寄与し,かつ西南戦争の原因ともなった。
1877 明治10 第1回内国勧業博覧会、上野公園で開催 内国勧業博覧会は、内務卿大久保利通が総裁となり、国家的大事業としての熱意で実現させた。新時代の人々の好奇心や旺盛な知識欲をエネルギー源とした殖産興業の具体的な表現であり、国家プロジェクトとしての一大イベントであった。
1878 明治11 ベル,電話機発明 この年2月14日,アメリカのグラハム・ベルとエリシャ・グレイが,同日電話の特許を申請した。ベルは午前,グレイは午後の出願。僅か2時間の差で栄冠はベルに輝いた。早起きは3文の得。 なお,なんとその時点で,まだ装置や実験が成功していなかったという。
1883 明治16 上野駅開業 後の東京の北の玄関、ふるさとの訛り懐かしい上野駅が開業。上野-熊谷間初の営業運転を開始する。所要時間は2時間24分。
1883 明治16 鹿鳴館開館 東京山下門内の外賓接待所落成「鹿鳴館」と命名。不平等条約改正運動の一環として、外国の使節や商人などを招いてダンスパーティが行われた。以後の接待費の伝統に責任があるかどうかは不明ながら、鹿鳴館時代の開幕となる。
1889 明治22 エッフェル塔建設 フランス革命勃発100周年記念のパリ万博での目玉として建設された。工期26ヶ月、総コスト約780万フラン、高さ300.65m(アンテナが付け足され、現在は高さ320m )。当時世界最高の建造物。なお、70年を経て東京に模造品が生まれた。
1889 明治22 大日本帝国憲法発布 欽定憲法として、ドイツをモデルに作られたとされており、「万世一系の天皇これを統治す」とある。統治を任せるために選ばれている今日の選良を見ると現憲法が進歩と言えるかどうか?
1890 明治23 帝国議会開設 国益より派閥を重視する弊害の出発点。選挙違反ここに始まる。でも今のまったく機能しない二院制よりましだったかもしれない。
1894 明治27 日清戦争 日本と清国との間に行われた朝鮮支配をめぐる戦争。平壌、遼東半島攻略、豊島沖、黄海の海戦を経て勝利し、下関条約により領土と賠償金を得るも三国干渉を引き起こした。愚者のテロにより取り分がだいぶ減らされた模様。
1895 明治28 レントゲン、X線の発見 これによりレントゲンは1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞。その後の医学の発展に寄与した。なお、腹の中は見えても本心まで見るには至っていない。
1898 明治31 キュリー夫妻ラジウムの発見 1903年ノーベル物理学賞受賞、後ノーベル化学賞をも受賞したスーパーレディー。キャリアウーマンの御先祖様。
1901 明治35 ノーベル賞創設 ダイナマイトにより巨富を築いたノーベルの遺産により運営されている。スエーデン王立科学アカデミーが物理、化学、経済学、スエーデンアカデミーが文学、カロリンスカ研究所が生理医学、ノルウエー国会の選考委員会が平和賞を、それぞれ選考する。
1903 明治36 ライト兄弟動力飛行に成功 人類に対して空が無限の可能性を示した最初の日、12秒で約10フィート上り、100フィート飛んだ。日本の二宮忠八はこれに先立つこと12年、動力による模型飛行を実現している。
1904 明治37 日露戦争 帝政ロシアの南下政策に対して、朝鮮半島と中国東北地方の覇権をかけて日本は中国を舞台にロシアと争い、辛勝した。これにより日本の国際的地位が高まった。我が国の行政府が最も機能した時代。
1905 明治38 アインシュタイン特殊相対性理論 この理論は時間と空間の絶対性を否定し、それまでの常識をくつがえすセンセーショナルなものであり、その後の科学に多大な影響を与えた。
1905 明治38 ポーツマスで日露講和条約調印 アメリカのルーズベルト大統領の仲介により日露両国が米国ポーツマスにおいて締結したもので、一文の賠償金も無く、日本国民の憤激を買い、日比谷公園焼き討ちの暴動がおこった。
1908 明治41 T型フォードの大量生産 まさにマスプロの時代が開かれた年。流れ作業の最初の例となるこの車は後,20世紀の代表として「カー・オブ・ザ・センチュリー」を受賞した。なお,ヘンリー・フォードに現在の交通渋滞の責任を問う動きはない。
1910 明治43 韓国併合に関する日韓条約調印 日本の帝国主義的野心により韓国を併合するにいたった出発点。推進者である伊藤博文は後にハルピン駅頭で暗殺された。
1911 明治44 辛亥革命 300年にわたり中国に君臨した清帝国が孫文らの提唱する三民主義運動により覆されたが、その後40年に及ぶ中国の混乱をも引き起こした。
1912 大正元年 タイタニック号沈没 世界最大かつ最も豪華な不沈の客船として脚光を浴びるも、処女航海で氷山に接触して沈没、およそ90年を経てレオ様により蘇る。カッコいい舳先でのデカプリオの姿を真似てはいないかな?
1914 大正3 第1次世界大戦勃発 セルビアのサラエボにおける一発の銃弾が欧亜にまたがる未曾有の大戦乱を引き起こした。飛行機・戦車・潜水艦など近代兵器が始めて投入され、動員兵力6000万、戦死者1000万に及び、国家総力戦となった。
1915 大正4 アインシュタイン一般性相対性理論 「慣性運動系」に限られた「特殊」なものであったが、加速度運動系や回転運動系にも拡張され、「一般相対性理論」として発表された。
1917 大正6 ロシア10月革命 第一次大戦の混乱のなか、レーニンによるロシア帝国の転覆が成功し、初めての社会主義革命がなされた。なお、誕生した本家ソビエト連邦は70年にして潰えたが、北朝鮮、ベトナム、キューバなど分家は社会主義国家としていまだに頑張っている。
1918 大正7 第1次世界大戦終結 オーストリア、ドイツの敗戦により大戦は終結し、墺・露・独・土の4帝国が滅亡した。なお、戦後処理の結果生じたベルサイユ体制が、20年を経て第二次大戦を引き起こしたとされている。我が日本は火事場泥棒的活躍で漁夫の利を得た。
1920 大正9 国際連盟発足 武力の裏づけがない国際組織はなんの足しにもならないことを世に示した国際的仲良しクラブ。わが国では脱退した事のみが記憶されている。
1923 大正12 関東大震災 大日本帝国の帝都東京を襲った地震は首都を壊滅させ、およそ15万人が死亡した。
1925 大正14 日ソ国交樹立 1月20日,日・ソ基本条約調印,しかし,敗戦間近の1945年ソ連軍は旧満州国に攻め込み,約束とは破られるためにあることを立証した。ソ連へ対する不信感が増大する。
1927 昭和2 金融恐慌始まる 米金融当局は欧州の中央銀行からの要請により、米欧間の金利差の是正を目指してこの年金融を緩和した。世界大恐慌の発端となった。
1929 昭和4 ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌へ 10月24日ウォール街の株価は暴落、「暗黒の木曜日」となった。株価は最終的に最高値の1/7に下落、ピークを回復するまでに大不況の十年と第二次大戦をはさみ22年もの歳月を要した。経済的な破綻は各国を襲い、未曾有の混乱を引きこす。これにより生糸相場も大暴落。農村の疲弊は極に達し、軍部の暴発、大戦への引き金となった。
1930 昭和5 ロンドン軍縮条約 戦艦並びに空母など補助艦艇の数を規制し,新造艦の建造禁止を定めた条約。我が国では後に統帥権干犯問題と呼ばれる政争事件に発展,軍部の政治介入のきっかけとなった。軍縮が戦争を惹起したという歴史の痛烈な皮肉として知られている。
1931 昭和6 満州事変勃発 遼東半島に駐在する帝国陸軍の主力、関東軍が満鉄線を爆破する柳条湖事件を自作自演し、政府の不拡大方針を無視して暴発した。張学良ら中国東北部の軍閥を追い落とし、満州国を発足させる基となった。
1932 昭和7 五・一五事件 5月15日海軍急進派の青年将校らが決起したクーデター事件。首相犬養毅を射殺。“話せばわかる。問答無用。それに続く銃声”が時代を物語る。クーデターは失敗したが,政党政治に止めを刺し,第二次大戦の原因となった
1933 昭和8 国際連盟脱退 リットン調査団の報告に基づいて満州国を否認した国際連盟総会の勧告を,断じて受け入れることは出来ないと全権代表松岡洋右は演説,そのまま退席,脱退した。日本は以後孤立の道を深めていくことになる。この決議で唯一シャム,現タイ王国だけが棄権してくれた恩義はどっかで返したのかしら。
1935 昭和10 湯川秀樹中間子理論 原子核を構成する陽子と中性子が結びつくための核力に関する中間子理論を発表した。日本人初のノーベル賞を受賞した。
1936 昭和11 二・二六事件 陸軍皇道派将校らが決起。首相官邸襲撃,陸軍省・参謀本部・警視庁を占拠し,斎藤実内大臣, 高橋是清蔵相 らを殺害した。成功するやに見えたが,天皇が激怒,鎮圧された。しかし,この後,軍部の台頭を許し,戦争の泥沼の中に引きずり込まれてゆく。
1936 昭和11 零式艦上戦闘機制式採用 驚異的な航続距離と,スピード,旋回性能を兼ね備えた当時世界最強の最新鋭戦闘機,当時の三菱は世界一だったのだ。皇紀2600年(昭和15年)に制式採用されたのでその末尾のゼロを取って 零式艦上戦闘機 と命名された。ゼロ戦という呼び名は「ゼロファイター」から戦後広まった言い方であり,戦中は零戦(レイセン)と呼んでいた。
1937 昭和11 米,カロザース(デュポン社)によるナイロンの発明 デュポンのONとニヒルのNYLを組合わせて命名されたと言う。ニヒルなカロザースの自殺1年後発表され,2年後女性用ストッキング発売,大ヒットする。
1937 昭和12 日華事変勃発 満州事変を拡大し、やがては中国全土に広がって太平洋戦争突入の直接の原因となった日本軍部の野心による戦争。直接には北京郊外の盧溝橋における銃声が引き金になったとされている。
1937 昭和12 戦艦大和起工 11月4日呉海軍工廠にて起工。大艦巨砲時代の掉尾をかざる大戦艦、常に日本人のロマンを掻き立てて止まない。当時世界最大最強とうたわれ、日本における科学技術水準の高さを示した。
1939 昭和14 第2次世界大戦勃発 ムッソリーニのファッショ、ナチスの野望、日本軍部の専横など原因は様々取沙汰されているが、要は人類の飽くなき野心と欲望の発露と理解される。
1940 昭和15 戦艦大和進水 8月8日呉海軍工廠にて進水、農村の疲弊、都市労働者の貧困にも拘らず、現代に換算して2600億円もの巨費を投じ、ここに帝国軍人の夢を乗せて完成。
1941 昭和16 戦艦大和就役 12月16日、46センチ3連装砲塔を装備した世界最強の戦艦として就役、完成時既に時代遅れであったことは否めなかった。費用対効果は薄く、戦果は雀の涙程度であったが、その建艦技術は戦後日本造船業界の復活を約束した。ファンダメンタルは不滅です。
1941 昭和16 太平洋戦争勃発 真珠湾攻撃に続いてマレー沖海戦、シンガポール陥落など開戦劈頭の快進撃はチャーチルをして震撼せしめた。しかし、資源小国日本の限界を露呈することとなる
1941 昭和16 ハワイ真珠湾空襲〈米英蘭〉に宣戦布告 日米両国の相互理解の不足、米国を参戦させるための謀略、日本軍部の独走など原因は種々挙げられるが、日露戦争と同様、「こんなことやらねえーだろう」と言う予測を覆すのが日本の国民性かもしれない。航空力による攻撃の有効性が証明された。
1944 昭和19 独,実用ロケットV1,V2 フォン・ブラウンの指導によって開発された世界初のロケット兵器。今日の大型宇宙ロケット設計の出発点となった。その技術は,戦後,米ソに引き継がれ,その後の遠距離大規模破壊兵器の開発と宇宙航空事業の進歩に大きく貢献した。このような兵器が今のところ,あんまり使われてないことを喜びたい。
1945 昭和20 戦艦大和沈没 片道燃料のみ搭載、航空援護無く4月1日出撃するも、米艦載機386機による波状攻撃により、爆弾6発、魚雷10本以上の直撃を受け、7日午後2時23分、あえなく沈没、九州坊ノ岬沖90海里の地点に眠る。ここに大艦巨砲時代の終焉が宣せられた。その後30年にして宇宙戦艦として復活。
1945 昭和20 ポツダム宣言受諾
第2次世界大戦終結
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、万世のために太平を開かんとする終戦の詔勅により古今未曾有の戦禍をもたらした大戦は終結した。が、結果として冷戦時代を向かえ、地域によっては新たな悲劇の幕が開いた。
1946 昭和21 日本国憲法公布 天皇を象徴とし,戦争の放棄・恒久平和をうたった民主憲法が公布された。ゴールデンウイークをつくるためではない。敗戦日本が押し付けられたとも言うけれど,アメリカさんもたまにはいいことやるじゃない。
1947 昭和22 日本国憲法施行 占領軍主導の平和憲法が発布、施行され、番犬飼って軍備を放棄する超経済的政策がその後の繁栄をもたらし、平和国家日本の第一歩が印されたはず。最近の憲法論議の行く末を再考したいものである。国家とは、国民とは、一体どうなってんの。
1949 昭和24 日本学術会議発足
学者の国会といわれる我が国科学技術行政をリードする組織。科学研究費を配るだけじゃないよ。
1950 昭和25 朝鮮動乱勃発 北鮮軍が奇襲侵略を強行。1ヶ月にして釜山を除く韓国全域が共産軍に占領された。そこで,国連軍がマッカーサー指揮下で参戦,ソ連の兵器で武装した中国人民軍と激戦,38度線を挟んで戦ったが,3年後に休戦。しかし,焦土の上で戦死200万人余,民間人犠牲者も450万人にのぼり,370万人もの子供達が父母を失った。朝鮮半島分断は今なお続いている。悲劇と言うも愚かな悲惨な戦争を起した独裁体制が現存することを忘れてはならない。
1951 昭和26 サンフランシスコ講和条約調印
日米安全保障条約調印
この2条約によって戦後処理に幕を引き、その後60年に及ぶ平和にして繁栄の極に達する時代が開かれた。しかし、現在も全土が米軍の占領状態にあることを忘れてはならない。沖縄の苦痛を全国民は看過すべきでない。
1953 昭和28 ワトソンとクリックDNA二重螺旋構造の発見 DNAの本体が解明されて、遺伝子工学の端緒が開かれ、新たな生物学(分子生物学)が展開された。これを基点に,遺伝子導入作物や人為的遺伝子改変の研究は急激に展開されている。「ヒトは神に近づいたか?」の疑問は今後も続くであろう。
1957 昭和32 ソ連、人工衛星スプートニク第1号打ち上げに成功 軍事技術の開発進展がもたらした、人類宇宙雄飛の1ページである。米国の宇宙戦略の拡大に火をつけたものである。
1960 昭和35 新安保条約批准、発効 当時は国論を2分する、と言うより悪評を極めたこの条約もその後の日本の飛躍に裨益するところ大であることは論を待たない。しかし、この条約が日本にとって真に有効かどうかはその後の、また後を注視しなければならない。北朝鮮の拉致や核の問題を考えるとき、この条約の「在り方」を再考すべきであろう。
1965 昭和40 アメリカ機、北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始) 民主主義国と社会主義国との代理戦争。近年社会主義国が収めた数少ない輝かしい成功として数えられる。
1968 昭和43 大学紛争、全国に広がる ベトナム戦争の醸す雰囲気が引き起こした不毛な紛争。終わってみて「あれはなんだったんだろ」と自問するものが多い。多くの血を流し,何が革新できたのか?歴史的な検証が始まっている。
1969 昭和44 アメリカ、アポロ11号月面着陸に成功 戦略兵器開発の副産物。小さな一歩だが宇宙旅行の幕開けを告げる大きな一歩と自賛していた。巨額の投資を行い,人類の科学に対する好奇心を駆り立てた。宇宙とともに地球の海の中にも関心を持ちたいものだ。
1970 昭和45 日本万国博覧会開会(大阪) 最初の東京万博は日中戦争のため中止となったので、日本初の万博となった。月の石が長蛇の列を呼び、千里の会場跡には太陽の塔が往時のよすがを伝える。
1970 昭和45 日本発の人工衛星「おおすみ」打ち上げ 軍事技術開発を伴わない稀な例といえる。戦後糸川博士のペンシルロケットから日本の宇宙技術開発は始まったが、零戦で培われた技術は連綿として継承されている。
1973 昭和48 第1次石油危機始まる 物が溢れ、繁栄を謳歌した人々に冷水を浴びせ、トイレットぺーパーの買いだめに走らせた。
1973 昭和48 ベトナム、和平協定パリで調印
アメリカ軍撤退決定
ドミノ理論を振りかざし、無敵を誇る米軍をはじめて屈服させた、社会主義国の勲功天を突く。時流れて人変わり、本学は ベトナムの2大学と姉妹校提携 がなされ、多くの研究者により平和的に共同研究がなされている。
1979 昭和54 第2次石油ショック 一時は世界大恐慌の再来を思わせるものがあったが、悲劇は繰り返されなかった。
1980 昭和55 イラン・イラク戦争始まる 苛々(イライラ)戦争とも称され、過激なシーア派によるイラン革命を喜ばない米国の代理としてイラクがイランに挑んだ愚戦、といっても賢明な戦争など存在しない。なお、この時米国から貰った武器でイラクはクエートに攻め込んだ。
1985 昭和60 「科学万博―つくば‘85」 開会 当時の先端科学技術が一同に会した、科学の祭典、我が国養蚕技術の先端性を示す、国産初の温度計、蚕当計が展示された。
1989 平成元年 「ベルリンの壁」の取り壊しが始まる 第二次大戦後長きに渡って社会主義国とされてきた東欧と言われる国々をソ連の頚木から解放した歴史的出来事。情報化,グローバル化の典型的な証左であろう。
1990 平成2 東西ドイツ再統合 ヨーロッパにおける第二次大戦の清算終わる。しかし、アジアでは朝鮮半島に分断国家が残り、負の遺産がいまだに継承されている。6カ国協議の再開が急がれ、極東にも春が来ることを切に望む。でも、懲りないドイツ人がまた何かやらなきゃいいけど。
1995 平成7 阪神淡路大地震 20世紀最後の5年に起こった、世紀末を思わせる激甚な災厄。大都市での自然災害に対する危機管理の必要性を警鐘させた。縦割り政治の脆さを露呈させもした。
1996 平成8 英国で狂牛病(BSE)騒動発生 経済効果だけのために、牛に牛を喰わせるという自然の摂理に逆らった愚行を行った人類への自然からの警鐘。おかげで吉野家の牛丼が食えなくなっちゃったじゃないか。
2001 平成13 国内で初めて狂牛病発生 千里の海を隔てるともグローバルな時代では安心できない証左。ついでに何人か役人の首もすげ変わった。狂牛病検査に対するアメリカの姿勢が消費者を怒らせる。
2001 平成13 米同時多発テロ
NY貿易センタービルにハイジャック機突入
ハイテクテロの現場が世界の茶の間にリアルタイムで飛び込んできた。現代の宗教戦争、現代の十字軍を生み出し、世界の警官を自認する米国が労を惜しまず大活躍するも好評を博せず。
2003 平成15 イラク戦争勃発、米・英空軍がイラクを攻撃 燃える焚き火に水をぶっ掛けたが、灰神楽が立って世界中に火の粉が飛んだだけ。その上、火種は摘み出したはずが鎮火せず、消防士が大火傷を負いそうな気配。対岸の火事により憲法改正を図る国も出る始末。
2005 平成17 愛知万博開会 “大阪万博の夢よもう一度”と、二匹目のドジョウを愛知の森に見つけにいったが、今のところちょっと小さい模様である。自然と環境との調和,人間の叡智などと叫んでも,一人一人の意識が変わらないと,未来人に 「負の遺産」を残すこととなる。
2005 平成17 中央アジア,極東,アフリカ等国際紛争深刻化 9.11の後,アメリカがアフガンやイラクで戦端をひらき,対テロ戦争をおっぱじめた国際的モグラ叩きゲーム。今のところ,迫撃砲でゴキブリを駆除するような手法が通用しない模様。

 

蚕の科学技術史解説
AD1-2 景行・成務・仲哀天皇時代 養蚕技術者渡来
「日本書紀」には応神14年(283)に百済の王が真毛津という機織り職人をわが国に派遣したと記されている。養蚕と機織りの技術者を多数率いて百済の弓月君が帰化したのは応神16年(285年),ただし、「新撰姓氏録」によれば応神14年。
711 和銅4 錦、綾の製造 和銅3年(711) 播磨で錦を織り始め、翌年元明天皇は、諸国に技術者を派遣し、錦、綾を広めた。延喜5年(906) には、錦、綾の製造技術は進歩、普遍化した。
901 延喜元年 犬頭糸製造 三河特産の上質糸で、節が少なく雪のように白いと「今昔物語」に記されている。皇室の御料になった糸であるが、製造開始の年代は定かではない。
1690 元禄3 野本道玄「蚕飼養法記」著 「蚕飼養法記」は、わが国で最も古い養蚕の専門書で、これが1,000冊あまり発刊されたのは、1702年である。
1757 宝暦7 蚕の膿病記録、桑の取り木法開発 「養蚕秘録」に記載。春に桑の枝条の先端部以外の芽をかき取り、この枝条を曲げて先端部が地上に出るように中途を地中に埋め、発根を待って切取る方法。埋設部や枝条の付け根の樹皮をむき発根を促した(現在の伏せ取り法、または傘取り法)。
1789 寛政元年 秋蚕の飼育
蚕品種、大草、小石丸
「大草」は、佐々木宇八が春用の1化性カイコと夏用の2化性カイコを掛け合わせて作出した飼育が容易で糸質の優良な品種。後に日106号という品種の作出母体となった。
1803 享和3 上垣守国、「 養蚕秘録 」著 養蚕秘録 」(上、中、下)は、養蚕の起源、飼育技術、桑の栽培技術、製糸・製織技術など絹生産に関する総合的技術書であり普及・啓蒙書である。1803年に出版され、1848年にはフランス語に訳されパリとイタリアのトリノで発行された。日本の技術輸出の第一号として知られている。
1846 弘化3 中村善右衛門、寒暖計自作
3年後「蚕当計秘訣」著
中村善右衛門は、蘭学医の持つ体温計をヒントに自作の寒暖計を製作し、蚕当計と名付けカイコの飼育温度と発育の速さの関係を調べ、「蚕当計秘訣」を著した。経験に基づく技術から科学に裏打ちされた技術への橋渡しとなった。
1865 慶応元年 風穴種、蚕種の低温貯蔵開発 秋蚕の飼育用に2化性非休眠卵の孵化を抑制するためには、低温(5℃前後)貯蔵が必要で、安定した低温が保てる富士山麓の風穴や各地の洞窟などが利用された。
1875 明治8 究理催青法開発 夏や秋にカイコを飼育するためには2化性蚕を春に飼育して得た蚕卵の内、休眠しない卵を用いていたが、全ての卵が休眠しないわけではなかった。長野県の蚕種業者の藤岡甚三郎は、春に飼育する2化性蚕の孵化条件を低温とすることで全てが休眠しない卵を産むことを発見した。
1906 明治39 外山亀太郎:昆虫の雑種強勢に関する研究
第2連関 群の発見
外山亀太郎博士は、黄色の繭を作るカイコと白い繭のカイコを掛け合わせ、はじめてメンデルの法則が動物においても当てはまることを確認した。また、特殊なメンデル遺伝の例としてカイコの卵色の母性遺伝(1913) やカイコにおける雑種強勢を発見した。
1914 大正3 一代雑種普及
(体系化が他の作物への応用へと発展)
雑種強勢を農業に応用した例として、トウモロコシが知られている。アメリカのトウモロコシ栽培で雑種が多く用いられたのは1943年以降であるが、カイコの一代雑種の利用普及率は1930年には90%を超えていた。外山亀太郎博士の雑種強勢に関する理論は、他の作物にも応用された。新城長友博士はイネに応用し、米の増産技術を確立したが、当時のわが国では減反政策がとられており、その技術は海外で利用された。
1928 大正4 外山亀太郎 「昆虫の雑種学研究---家蚕の雑種に就いて、特に メンデル遺伝法則 を論ず」により学士院賞 その後の動植物の品種改良に大きなインパクトを与えた雑種強勢の研究に対して学士院賞が与えられた。なお、同時に受賞した野口英世があまりにも有名だったため、外山亀太郎の研究は霞んでしまった。
1954 昭和29 橋本春雄、田島弥太郎 「家蚕における性決定に関する研究とその応用」により学士院賞 動物の性決定に関する研究の先駆けとなった研究
1957 昭和32 福田宗一 「昆虫とくに家蚕の内分泌生理に関する研究」により学士院賞 昆虫変態のホルモン支配を世界に先駆けて解明した。
1971 昭和46 平塚英吉文化功労者となる 多年にわたる平塚の蚕糸研究行政への貢献と、先駆的な蚕の栄養生理学的研究が評価された
1976 昭和51 諸星静次郎 紫綬褒章受章
蚕の成長と発育をホルモンと遺伝の両面から研究し、蚕種製造や育種などへの実用的な成果が評価され、諸星静次郎は蚕糸学賞、日本農学賞、紫綬褒章、学士院賞を受賞した。
1983 昭和58 諸星静次郎  「家蚕の成長と発育に関する研究」により学士院賞 蚕の成長と発育について,遺伝学及び内分泌の両面から研究し,蚕の眠性(脱皮の回数)や化性(休眠性)はそれぞれを制御している遺伝子によって支配されていることを証明した。更にその遺伝子情報はホルモン類(エクジソン,幼若ホルモン,脳ホルモン,前胸腺刺激ホルモン)の分泌様式を制御していることを生理・生化学的に証明した。これらの研究成果は,蚕種製造や育蚕など,実用面でも高く評価された。昭和55年には昭和天皇に,平成9年には今上天皇に,研究内容をご進講された。

 

日本の蚕糸業をめぐる社会文化史
AD3   『魏志』倭人伝に「蚕桑絹績」 中国の史書『魏志』倭人伝には、紀元3世紀に邪馬台国から魏に倭錦が送られている記述があり、この頃には、すでに繭から糸を作る技術があったと推測されます。『魏志倭人伝』は卑弥呼のロマンだけじゃありません。
714 和銅7 『続日本書紀』に上野国らの税麻から太絹に変えるの記述 奈良時代には、物品貨幣として価値をもつ絹布を、税として地方から中央へ集中化させ、国家財源に充当していた。
927 延長5 『延喜式』成立 10世紀に編纂された延喜式には、畿内を除く61カ国中48カ国が絹生産国として記録され、その品位によって、上糸国、中糸国、太糸国と分類されていた。
1712 正徳2 『和漢三才図会』に日野絹の記述 江戸時代も元禄・享保期に入ると、畿内を中心に、農民的商品経済の発達がみられ、各地の絹製品が、地方特産物(例えば上野の国の日野絹)として江戸の中央市場に姿を現すようになった。
1713 正徳3 和糸の使用と養蚕の奨励策 江戸幕府は、白糸(中国から輸入した生糸)の輸入を制限し、和糸の使用や養蚕奨励策を打ち出したことから、畿内の織物産地へ大量の生糸が運ばれた。
1870 明治3 民部省勧業局に養蚕課設置 その後農林省蚕糸局となり養蚕大国日本をリードしたが役割を終えて廃止された。

 

製糸・機織の技術史
720 養老4 日本書紀と糸繰り 日本最古の勅撰正史日本書紀( 720年)のなか(巻第一神代上第五段、六段)で蚕と桑の発生の記述と糸引きの既述がある。ある神の「頭の上に、蚕と桑と生まれり」とある。また、別の神の亡骸の頂「眉の上に繭生まれり」とあり、「口の裏に繭を含みて、すなわち,糸抽くことを得たり」とある。繭を浸潤させ繰糸することを示唆している。
1131 天承 「耕織図」の糸繰り器 中国にいくつかの「耕織図」があるが、古いものでは12世紀時代の「耕織図」(楼寿玉)があげられる。そのなかに当時の中国江南地方の糸繰り図がある。糸繰り方式は、大枠手回し、腰掛式、直焚き方式、煮繰兼業である。後の佩文斉耕織図(1696年)の糸繰りの図を見ても大同小異である。これらの技術は後に東西に伝播した。
1590 天正18 紋様織物技法、高機 縮緬の技法は1573-1592年(天正年間、中国は明代)に、中国から堺を経て西陣に伝えられた。西陣織りの起源は5-6世紀とされ、大陸からの秦氏一族が養蚕、製糸、織物技術を伝えたとされる。15世紀末には中国の「高機」(空引き装置つき)で紋様織物や綴織物などの技術を確立した。
1603 慶長8 白糸割符 蚕糸業は戦国時代(16世紀)には衰退傾向にあったが、徳川時代(17世紀)に入り回復、和糸は不足傾向で輸入生糸が増加してきた。輸入拠点長崎における輸入糸白糸(白色で精良)について、幕府は、糸割符制度を設けて特定の商人に輸入の独占権を与え保護することにした。割符商人は巨額の利を得たとされる。
1637 寛永14 「天工開物」 中国明朝末1637年に宋應星によって作られた、中国の代表的産業技術百科全書である。繊維関係は「衣服」の分類に属し、養蚕、製糸、製織の分野を図入りで解説している。たとえば、老足(熟蚕)の図、治糸図(糸繰り器)、 花機図 (高機、空引き、紋織り機)、 腰機式 (小型平織り)図などについて技術実用指南書となっている。
1698 元禄11 「登せ糸」 割符制度は見直されてきたが、長崎割符会所は、白糸輸入割符高を改め、なお不足する分は和糸で充当するものとした。 かつて延喜式(927)で3大区分(糸質)と地域があげられていたが、その後、国内養蚕業の発達により、白糸輸入は衰退し、機業の中心地京都へは国内遠隔地からも京へ登る和糸「登せ糸」として供給された。
1716 享保元年 幕府殖産政策、丹後地方で縮緬織り 18世紀初期には幕府体制は安定し、生産活動は活発となってきた。農業面では耕地面積の拡大、農業技術の進歩、その他諸産業の発達などがみられた。手工業の発達の中には織物が含まれ、高級縮緬織物が丹後地方で享保年間(1716-1736)に始められた。織物分野では西陣織物、桐生織物その他があげられる。
1733 享保18 ジョン・ケイによる飛杼の発明 英国では18世紀半ばから伝統的産業の技術的革新が行われ、手工業的作業場から機械化された工場制生産に移行する産業革命期にはいった。英国のジョン・ケイは1733年、織機の たて糸・よこ糸の間に よこ糸巻きのある杼を手で投げ入れていた方法に代えて機械的に左右交互に投げ入れる「飛杼」の方法を発明した。作業者は疲れず正確に広幅でも容易によこ入れを行うことができるようになった。
1737 元文2 東国桐生地区への高機の伝播 東国地域の絹織物産地のうち、栃木県、群馬県には多くの繊維都市がある。桐生地区もその一つで、8世紀あたりにまで遡る。桐生が一層発展したのは、西陣地区から「高機」による織物技術を導入し、高級織物 紗綾・竜紋・綸子などの生産ができるようになったことにる。
1750 寛延3 長浜で縮緬製織 通常「濱縮緬」と呼ばれる丹後地区と並ぶ縮緬二大産地となっている。織物の歴史は古いが、寳暦年間(1751-1764)に丹後の縮緬技術が導入されて「長浜縮緬」が完成した。その後多くの縮緬があみだされ、生産量も増加した。一越縮緬は最高級品とされる。
1756 宝暦6 丑っ子方式と丑首座繰り 必ずしも18世紀半ばとの証左はない。信州、上州では三丹地方の手挽き式(1789年)が使われたという。古くは自然木の太枝を斜めに仕掛けて先端に枠をつけ繰りとる方法で、「丑っ子」、「丑首」などと呼ばれている。後には台座、支柱つき丑首座繰り化した。
1757 宝暦7 胴繰りに調車をつける 奥州流糸繰り器は手挽きの最初であるが、原型の糸繰り車に大小の調車をつけ、これに調帯をかけて大調車にはハンドルをつけて回転作業を軽減させた。これにより繰り取り回転数も増加させることができるようにした。
1764 明和元年 ハーグリーブス(英)多軸紡績機発明 飛び杼の発明で生産量が増大し、原糸(綿紡績糸)の供給が間にあわず、綿紡機械の性能改善が望まれていた。これに対しハーグリーブス(英)は、初めて多軸式(15錘)の紡績機械を発明し、産業革命紡績関係4大発明の第一となった。
1767 明和4 工場制手工業の芽生え(足利,桐生地方) 機織業の工場制手工業の形態が芽生えてきた時期として、いわゆる田沼時代(1767-86)の一時期が記録されている。貿易振興、地域開発などが図られ、足利・桐生地方では織機の事例が残されている。製糸業の工場制手工業への芽生えが座繰り台連結が試みられた時期1859年と見れば若干の遅れがみられる。
1768 明和5 アークライト(英)水力紡績機械発明 ランカシャー生まれのリチャード・アークライトが綿から綿糸を紡ぐ紡績機械をつくった。動力に水車を利用したある機械工のアイディアを知り、自らその実用化を目指し、ローラー式紡績機械の考案を行った。自工場で改良を繰り返し、実用化に成功した。垂直並列式ベルト摺動式、フライヤーつき紡績錘紡績機械であり、原動力を水車から得るようにした方式であった。
1783 天明4 水力利用撚糸機八丁車の発明 桐生では1743年(寛保3年)頃から縮緬を生産していたが、原糸の撚り技術が未熟であり、良い製品は得られなかった。下総の人 岩瀬吉兵衛は西陣の模造紡車を改良研究し、水力利用の多錘式の完全な撚糸機を発明した。この源流は中国の水平並列撚糸機に由来するとみられる。
1785 天明5 カートライト力織機発明 英国の牧師であったが「織り機」に関心を持ち、試行錯誤の後、よこ入れ,よこ打ち、たて糸開口、たて糸巻き、織り布巻取りなど織機の一連の基本運動を自動化した動力織機を発明した。動力は蒸気動力とした。英国における織布生産の増産に貢献した。動力織機の構想はすでに1490年当時 レオナルト・゙ダ・ヴィンチ により考案されていた。
1788 天明8 絹織物高級化と生産分業化 1711年(正徳元年)-1788年(天明8年)の間、奢侈的物資としての絹織物に対する需要が増大し絹織工業を興す必要がでてきた。1738年には西陣から高機(空引機)が桐生に入り、寛政年間に入ってからは、桐生は紋織り工を招き、また、染色技術を導入するなど技術的にさらにレベルを上げ、生産方法は分業化へ向かうようになった。
1800 寛政12 ジャカード装置完成 フランス人 J.M ジャカールにより考案され実用化された紋織り開口装置である。織物組織図に対応し紋紙に開けられた穴の有無を検索針で感知し、たて糸を1本ずつ単独に選択的に運動させるようにし、複雑な組織や紋織りが織れるようにした たて糸開口装置である。日本へは明治6年輸入された。現在は織物組織図は電子制御されている。
1802 享和3 奥州流胴繰り 糸繰り工女に左側に竃,鍋を置き、糸繰りは筒状繰り枠を工女とは平行に支えることができるよう2本の支柱で支え、右手で筒状繰り枠を手前に回し煮繭から糸を左手で よりかけ および案内として繰りとる方法である。胴繰りに調車をつける方法として12項で示した。養蚕秘録(1803)発行年基準で示したが、実際には1757年に実行されていた。
1802 享和3 三丹流手挽き 1本の支柱に繰り枠軸を直角に糸繰り工女側に仕掛け、これに繰り枠を自由に回転できるように仕掛ける。繰り枠は右手ハンドル回転、左手は繰り糸 よりかけ および案内、直焚き繰糸鍋である。
1804 文化元年 軽業繰り 群馬県において、1802-1804年(享和元年-3年)に初めて製作されたとされる。3枚の座をたてに重ね,その上に小座をつける。繰り枠は四角型で枠手が5寸とされていた。ここで座は歯車を意味する。また、菊座車とも呼んでいたという。
1808 文化5 平座繰り(3枚座)考案 群馬県で使われた座繰り器で3枚の歯車を単純に組み合わせた平座繰りである。繰り枠の回転数はあまり高められないことから、後年繰り枠を2枠とする二つ取り座繰りが可能となった。
1813 文化10 手動八丁撚糸機日本で普及 19世紀の初頭にかけて、縮緬織りの普及とともに、よこ糸(左撚り、右撚り)の需要が多くなってきた。八丁撚糸機はその源流は中国とされるが、多数のより糸を同時に、しかも、左、右に撚りわけ可能という特徴があることなどから江戸時代後期に普及をみた。蚕飼絹篩大成巻下(1813-14),成田重兵衛)等に紹介された。
1815 文化12 イタリアで最初の蒸気繰り製糸工場 現代では常識的な、生糸の「蒸気繰り」(煮繭、繰糸の熱源を蒸気汽鑵による)の最初のアイディアはイタリア北部で生まれ、生糸の蒸気繰りへの最初の蒸気系統図が実施されたのはロンバルディア地方の製糸工場であった。日本の蒸気繰りは直輸入とはいえ1872年の富岡製糸場であることから、約百年の開きがある。
1830 天保元年 奥州座繰りに振り手つき 奥州座繰りの機械化(調車と調帯の組み合わせ)は上州繰りの機械化(座=歯車の組み合わせ)より20-30年先行していた。しかし、振り手(綾振り機構)については1830年〜(天保年間)とされていることから、ほぼ同時期といえる。
1832 天保3 左手座繰り(山路絡交による振り竹) 上州座繰りの中で、従来の右手による枠回転方式では接緒能力を高められず、左手回しへの変更が望まれていた。これに対し、既存の座繰り器に山路絡交による振り竹(綾振り)を装備させ、左手回しへ移行するきっかけをつくった。左手座繰りである。
1835 天保6 よりかけ方式 (フランス共撚式、イタリア ケンネル式) 19世紀当初よりかけ方式ではフランス式「共撚式」(シャンボン式)、ケンネル式(タヴェッラ式)が使われてきた。共撚式の源流はフランスで1828年(文政11年),フランス人シャンボンにより、また、ケンネル式については1835年(天保6年)、イタリアでヴァスコによって考案され実用化されたタヴェッラ式と見られる。
1855 安政2 二つ取座繰りの考案 上州座繰りに山路絡交式振り竹を取り付け左手座繰りとし、2本の糸を同時に繰りとる二つ取座繰りが考案された。また、奥州座繰りでは、固定板カムと回転案内腕の組み合わせによる綾振り駆動方式も考案された。
1859 安政6年 安政開港生糸輸出開始で影響 横浜が開港され、経済的な変革がもたらされた。生糸は量産輸出品の筆頭として上げられ、生糸の輸出が開始され、生糸貿易額の上では活況を呈した。しかし、内国向け生糸は不足し、国内織物業は糸不足の打撃を蒙り、一方、海外市場からは国産生糸の粗製濫造などクレームが多発し、市場の混乱が続いた。
1859 安政6年 座繰台を連結 上州碓井郡の沼賀茂一郎は初めて水車動力による座繰り器を連結して30人繰りの設備をつくった。慶応年間には信州の増沢清助、明治6年には舘三郎など連結繰糸法が考案されたが、十分な実用化には至らなかった。
1861 文久元年 上州座繰り(二つ取り座繰り)岡谷に移入 信州平野村(現岡谷市)の2人が上州高崎(または伊勢崎)から上州二つ取リ座繰り2台宛購入した。これを「ゼンマイ」と称し、これによる製糸は「リャン取」と称した。ゼンマイは手挽きに比し能率が上がり、揚返方法も歯車式に変更せざるをえなかった。
1866 慶応2 上州一つ取り座繰りに戻す 前記二つ座繰りは生産性向上には役立ったが、能率本位であり、2本の生糸を同時に繰りとることから品位が損なわれ、結果的には再度一つ取座繰りに戻した。
1867 慶応3 力織機100台を英国Platt社から輸入 島津藩では琉球が輸入した紡績糸に注目、将来の輸入の増加に対応し、国産紡績振興のため、薩摩藩営鹿児島紡績所を設立することになった。英国プラット・ブラザーズ社より紡績設備(力織機100台、紡績錘数3,400錘 織機:水力、紡機:蒸気力)を輸入,技師イー・ホーム他6名が派遣された。日本初の洋式紡績工場となる。
1870 明治3 イタリア式製糸法の導入(藩営前橋製糸所) 洋式製糸技術が初めて日本に紹介され、「技術移植」が行われたのは前橋であった。スイス人グスタフ・ミューラーの指導で、前橋在に3台6人繰り(後に12台24人繰り)のケンネル式木製大枠直繰式の代表的イタリア式器械が完成した。
1871 明治4 イタリア式製糸法の導入(小野組築地製糸場) 生糸商小野組は、グスタフ・ミューラーの指導で、東京築地に60人繰り、後に96人繰り、イタリア式ケンネル3緒繰り大枠直繰製糸場を完成した。熱源は熱煙道式、手動動力(後に水力)、煮繰分業(繰糸2,煮繭兼索緒1が1組)であった。
1871 明治4 足踏器の考案 信州の館三郎はその著「生糸製方指南」で足踏器(自転車ともいう)を発表している。足踏み駆動方式で、横踏み、前踏みなどがあった。
1872 明治5 フランス式製糸法の導入(官営富岡製糸場) 日本生糸粗製濫造防止のため,フランス式製糸法の導入,操業を開始した。製糸設備一式、工場管理技術、建設関連など一切をフランスより輸入した。製糸設備としては、300釜(25セット)300人繰り、2緒/1釜、煮繰兼業、小枠再繰、よりかけ共撚式、蒸気汽鑵、蒸気機関であった。このフランス式製糸技術はイタリア式技術とあいまって各地に伝播した。製糸業の近代化への端緒となった。
1873 明治6 政府、第5回ウィーン万国博覧会に技術員派遣
欧州の先進的蚕糸技術を習得研究するため、政府派遣技術員として、養蚕関係で佐々木長淳、製糸・機織関係で圓中文助の2人が選出され渡欧した。佐々木は博覧会視察の後、欧州各国の蚕糸事情を視察、技術習得の後、同年12月帰国した。圓中は博覧会視察の後、イタリア工業学校で製糸法、機械工学を学び、製糸工場、生糸検査所で技術を習得し7年に帰国した。
1873 明治6 館三郎 摩撚器他考案 イタリア式ケンネルよりかけ器を従来の手繰り器に仕掛けてその効果を確認したとみられる。こうして新しい技術についていち早く実験確認を行っていた。
1873 明治6 片倉創業 片倉製糸の創業者片倉市助が現岡谷市川岸の地に10釜の製糸場を開き、後年日本製糸業界のリーディングカンパニーとなる片倉がここに誕生した。1878年(明治11年)に32釜の垣外(かいと)製糸場をつくった。
1873 明治6 日本へのジャカード、バッタンの移入 西陣の伊達弥助はウィーン万国博の後、ジャカード、バッタンを持ち帰った。 ジャカード゙はオーストリア系であったが、西陣,桐生の各機業に渡し、また、バッタンは北陸機業に渡して、それぞれの企業の今日の技術的バック・ボーンとなる. (1873年なるも74年欄利用)
1875 明治8 洋式製糸法の教育、研究、技術普及 内務省勧業試験場
内山下町新設製糸試験場に圓中の購入した機械を含め、製糸(イタリア式直繰2台を含む)、撚糸、織機、の設備として整え、伝習生の教育が開始された。
1875 明治8 イタリアフランス折衷式木製繰糸機諏訪式繰糸機,中山社操業開始 イタリア・フランス折衷式繰糸機械「諏訪式繰式」の実用化、中山社操業開始
洋式製糸法として日本に紹介された、イタリア式製糸法(前橋製糸所、築地製糸所他)およびフランス式製糸法(富岡製糸場)の2方式が実稼動していた。しかし、日本の製糸法としては不適切との評価で、双方の長所を採用し、日本の製糸に最適な製糸法を研究し独自の繰糸機をつくりあげた。中山社の「諏訪式繰糸機」がその例であり、座繰繰糸器、多条繰糸機、自動繰糸機という3大機械範疇の一つを占めるものとなった。座繰繰糸器は諏訪式のみではないが代表機種の一としてあげておく。
1880 明治13 ヨーロッパにおける自動繰糸機の研究 自動繰糸機に関する研究は、フランスが先行した。 在仏米人E.W.セレールが[伸張応力感知+固定給繭+電気接緒]による自動化考案(1880年)が最初である。1880-1930年間の自動化に関する研究開発は15件内外であった。しかし、いずれも実用化はできなかった。
1883 明治16 人造絹糸の発明 英国のスワンによってはじめてつくり出された、ニトロセルローズ繊維で、「人造絹糸」と命名された。翌年、フランスのシャルドンネ伯がニトロセルローズから人造絹糸を作る特許を取得した。木材パルプのセルローズを溶解しコロイド溶液とし、オリフィスから凝固液中へ射出して繊維状にした。
1886 明治19 圓中文助,フランスで4口繰り接緒器を購入 接緒器については圓山文助が最初に北部イタリアで試験中のものを見たとされ、後に1878年帰国、これを佐々木長淳に報告、佐々木はこれにヒントを得て座繰り器に応用した。圓中はこの年フランスにて改めて接緒器を確認, 4口繰りを1組購入し持ち帰った.しかし、日本では、当時は、接緒器の実用化には関心が薄かった。
1890 明治23 御法川直三郎回転接緒器考案 このころ御法川直三郎は回転接緒器の研究を行っており、回転円盤と通糸管を組み合わせた現代の回転接緒器と同様な考え方の方式であった。同時期に、舘三郎も回転接緒器を考案した。しかし、接緒器導入に対しては操作性の点などから当時は批判的であった。
1890 明治23 紡績会社で織布兼業始まる この時期には専業紡績会社が業容を拡大し、合併などにより生産規模も拡大してきた。紡績糸生産は過剰気味ではあったが、原糸生産のみならず、付加価値増大のため、織布にまで加工して織布製品として加工度を高めて販売するようになり、諸織布兼業がおこなわれるようになった。
1893 明治26 米国で、日本糸が, フランス・イタリアに劣り、価格は中国より高しとの評 この時代の米国では、生糸の自給計画もあったようだが、労働力不足から中止したという。生糸は海外から輸入となり、日本、イタリア、中国が主要輸出国であった。日本糸の米国内での評価は低く、織物たて糸用としてはイタリア糸、よこ糸用としては日本糸という評価が定着し始めた。
1895 明治28 ジャカード織機, 西陣で普及 ジャカード機は1873年、フランス,オーストリアから輸入されて、1874年に京都博覧会にて紹介され、1875年、西陣において伝習された。以来20年余を経過したが、このジャカード織機の導入とその独自の研究開発により発展を遂げることができた。
1896 明治29 豊田佐吉,国産初の動力織機発明 日本に洋式織機が入り(1858年)、英国からバッタンが入ってよこ入れ手作業は省力化された。さらに、足踏み化への改良が行われることにより、動力織機化への基礎が固められた。海外の動力機械織機も紹介されていたが、豊田佐吉は、自力でこの動力織機を開発するものとし、その実用機を完成した。よこ糸切断停止装置、シャットルフィーラ等独創的な考え方も含まれており、次第に自動織機化への道を固めていった。
1899 明治32 圓中文助、初の自動繰糸機「製絲機」特許 圓山文助は数回にわたる欧州視察を行っていたが、この年わが国初の「自動繰糸機」の特許を取得した。その特許の目的を3つあげている。
@人工ヲ減少シテ、速ヤカナラシム
A繊度及ビ色澤ヲ均一ナラシム
B節ヲ防ギ、纒絡セル糸嵩ヲ一定ナラシム
というものであった。繊度感知方式は、共撚式を基準とするいわば定繊度式ともいえたが、実用化にはいたらなかった。
1900 明治33 力織機の普及と桐生他羽二重産地の生産盛ん 豊田式力織機が明治29年試作された後、津田駒式力織機が明治30年に試作発表された。豊田式が主として綿業関係で、津田駒式が絹業関係で、ほぼ同様な過程を踏んで自動織機への発展がなされてきた。津田米次郎の絹力織機の発明がこの年であり、綿業、絹業ともに高級織物産地での評価を得て織物生産に貢献した。
1902 明治35 富岡製糸場,原合名会社に譲渡,原富岡製糸所となる 官営模富岡製糸場はその設立の目的を充分果たすことができ、日本の近代製糸業の幕開けに大きく貢献した。しかし、営業製糸経営の点から深刻な課題を抱えていた。明治26年には三井家に払い下げられ、この年には原合名会社へ譲渡され、原富岡製糸所として経営されたが、昭和14年に片倉製糸紡績鰍フ富岡製糸所となった。
1903 明治36 御法川直三郎、多条繰糸機発明 当時は、新型機や新機種の発表は、博覧会会場において行われていたが、御法川式の場合に多くの新規装置の組み合わせがあるため、発表年式で呼称しなければならない。 今回の仕様としては、12条多条、低温、緩速、直繰、ケンネルの原則(後に小枠再繰式に)とした。第5回内国勧業博で発明王と称される。
1907 明治40 御法川20条式、後枠式多条繰糸機 今日標準的とされる1繰糸工1台(釜)あたり20条という基準で操業できるまでの付帯的条件を整えるに至った。東京勧業博にて一等賞を得ている。
1908 明治41 中原式新型煮繭機 中原作太郎が煮繭機を考案した。機械式煮繭機として日本で最初のものとされている。直径約1.2m,深さ約0.3m程度の小型のタンク内に煮繭容器を収容し、煮繭した。
1909 明治42 自動進行コンベア式連続乾燥機 従来の土室繭篭式や固定棚式あるいは台車棚式乾燥方式に代えて、機械的な輸送帯(コンベア)を4段内外設け、1段目は後方へ、2段目は前方へというように段落移動させることを特徴とする乾繭機であり、繭乾燥機としては最初のベルトコンベア式連続乾燥機といわれる方式であった。
1918 大正7 民営に移行後の富岡製糸場の繰糸機 民営に移行後の富岡製糸場繰糸機は全部沈繰用となり、4口繰り,ケンネル式に改修された(岡谷蚕糸博物館所蔵機)。