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天皇家御養蚕所と東京農工大学


御養蚕室での香淳皇后陛下の
御給桑 <拡大>

  日本において初めて養蚕が行われたのは3世紀の中頃とされており ,皇室で も古くから 養蚕が行われていたとされ,詳細は不明で はあるが,「日本書紀」には関係する記述がある。雄略天皇(5世紀後半)の巻に,「雄略天皇は后妃に自ら桑を摘ませ,養蚕を勧めようと思われ,国内の蚕を集めさせた」というものである。今から約千五百年前に,天皇家が養蚕に関心をもたれていたことが伺えるであろう。

  皇室で正式に養蚕が始められたのは明治初期のことである。即ち,明治4年( 1871年),昭憲皇太后が吹上御苑内において復興されてからである。安政6年(1859年)に鎖国政策が解かれ,横浜・長崎・函館の開港により外国との貿易が始まった。その当時,日本からの輸出品の大部分は,生糸,茶,蚕種の三品目で占められており,その中でも生糸は最大の輸出品目であった。蚕糸業は殖産興業と外貨獲得の面からもきわめて重要な産業であり,国家経済と国民生活に欠くことのできない産業であった。従って,近代日本経済の礎を築いたものは,養蚕業・蚕糸業であるといっても過言ではない。

 

  明治4年昭憲皇太后(明治天皇妃)によって始められた宮中での養蚕(ご養蚕という)は,英照皇太后(孝明天皇妃),貞明皇后(大正天皇妃),香淳皇后(昭和天皇妃),そして現在の皇后陛下に引き継がれている。御養蚕所(蚕を飼育する場所の名前)の火災や御所の移転,戦災などによる一時的な中断はあったものの,明治初期より現在まで皇室におけるご養蚕が紅葉山御養蚕所において連綿として続けられている。
  明治12年英照皇太后が青山御所内に御養蚕所を新設され,御養蚕は再開された。この御養蚕所は田島弥平(現在の群馬県佐波郡境町島村の郷長)の設計により,木造2階建て,1階は飼育室,2階は上蔟室(繭を作らせる場所)として作られた。御養蚕所の隣には小さな蚕室も併設され,華族の子女が蚕の飼育を行っていた。その後,青山御所でのご養蚕は1年も休まず続けられ,英照皇太后が崩御される前年の明治29年まで続けられた。


貞明皇后陛下の本学繊維学部行啓 <拡大>

小石丸の繭<拡大>

 

  明治41年皇太子妃殿下(貞明皇后)により青山御所内御養蚕所における蚕の飼育が復活されることとなった。これより前の,明治38年,皇太子妃殿下は当時の 東京蚕業講習所(現在の東京農工大学) に行啓され,養蚕や製糸を視察された。その折,当時最も優秀な品種とされていた「小石丸」の献上を受けられ,この品種は現在も皇居で飼育されている。御養蚕所における飼育に当たり,東京蚕業講習所 本多岩次郎 所長へのご下問があり,その結果,英照皇太后が使用されていた御養蚕所を改造して飼育することとなった。


東京高等蚕糸学校正門<拡大>

徳川喜久子姫,後の高松宮妃殿下の本学ご訪問 <拡大>
左端渋沢栄一,右端本多校長

 


初代校長 本多岩次郎<拡大>

  貞明皇后は九条家に生まれ節子姫と呼ばれていた時から養蚕にご関心があったようで,青山御所において明治45年までは皇太子妃殿下として,大正2年からは皇后として御親蚕(皇后御自ら蚕を飼育なさる こと)された。大正3年には,本多岩次郎設計の御養蚕所が皇居内紅葉山に木造2階建ての,伝統的な蚕室と,当時としては近代的とされた蚕室とを備えた御養蚕所として新設され,本格的に御養蚕が行われるようになった。


佐藤好祐氏 <拡大>

  紅葉山御養蚕所での御養蚕は,昭和3年貞明皇后から香淳皇后に引き継がれたが,貞明皇后は昭和26年に崩御されるまでお手許で蚕の飼育をなさるとともに,戦後の昭和22年には大日本蚕糸会の総裁となられ,本学繊維学部をはじめ,全国を巡って蚕糸関係施設の視察や蚕糸関係者 ,養蚕農家を激励なされた。また,養蚕・製糸の関連学科に奨学金を御下賜され,本学 OBの中には貞明皇后奨学金にお世話になった方も多い。なお,平成8年から御養蚕所主任として本学OB佐藤好祐氏が奉職,養蚕の指導に当たっておられる。

   現在の皇后陛下は,平成元年に香淳皇后より御養蚕を引き継がれた。天皇陛下の稲作と共に,皇后陛下の御養蚕は,我が国における農耕文化の象徴として重要な皇室行事となり,今後も継承されていくであろう。

 

皇后陛下の養蚕に関する御歌を一首掲載しておこう。

 

時折に糸吐かずをり薄き繭の

中なる蚕疲れしならむ

 

 

参考図書「日本絹の里雑誌:5号,2002」
群馬県立日本絹の里(編集・発行)