松本正雄名誉教授による園芸学研究室に関する講演の内容

聞こえなかったら言って下さい.私もかつては講義をやってましたし、いろいろ          講演を頼まれました.最近はもう隠居しておりますからあまり多くの皆さんの やっぱり声がダメになちゃうんですね.内の家内でさえ「あなたの声は聴きづらい」と そうでなければ地声でやらせていただきます. 少し園芸研究室の古い話をしてくれないか,というお願いがありましてお引き受けしたんですが、古いと言うことになるとさっきもお話したように私も80を超えてますので 正確に日時などお話するのが大変難しくなってきました.それで今日はえーまあ荻原先生からこんな事を話してくれとご希望があったんですけれども、私なりに東京農工大学の前身であります東京大学の成り立ちといいますか,大学の成り立ち,その辺の所から我々の園芸研究室がどうやって出来たのかという話をさせて頂きます。と申しますのその辺の所につきましては、私共の同僚とか先輩がかなり資料を作っておりますのでその資料に基づいてお話したいと思います.今日お配りしております1枚目と2枚目のプリントは比較的その点では正確な資料に基づいておりますので,これはご利用いただいて結構だと思います.農工大になりましてから私は昭和で言いますと27年農工大に赴任致しました.その当時はまあ農工大は大変な学校だったんです。私も大変な所に来たなと思うぐらい大変な学校でございました.そしていろんなことに   正確な資料を手元にあまり持っておりませんので、正確な資料と言えば農工大で同窓会なんかで出版されております100年の歩みがございます.それらについては皆さんも目を通しておられることと思いますのでそういうことでご承知頂きたいと思います.従いまして今日はいわゆる駒場農学校から昭和10年に駒場農学校の後身であります東京帝国大学の実科がここへ     移ったわけででここは元々当時帝国大学の演習林だったんですね.今は演習林の面影はほとんどございませんけれども演習林のあった所に移った訳であります.それで私はそこの辺までですね.駒場農学校からここへ移ってまでは資料に基づいてお話ししたいと思います.その後昭和27年に私はこの大学に参りまして先程申しましたように色々な事があったと申し上げましたが、それは正確な資料に基づいてお話が出来ないという事がたくさんある.ある意味ではあまりきちんとした資料にして残しちゃまずいようなお話もあろうかと・・・その辺が・・きちんとした資料して残しちゃまずいようなお話もあろうかと思います。きちんとした資料に基づいた話の後は雑談的に裏話などを申し上げる.... それからついでではありますけれども今日お手元にお配りしております資料の3枚目と4枚目の「私にも出来そうな禁煙の・・・・」これが偶然の事でありますけれど今・・・センターに来ておられるあべまゆみ先生ですね.あの先生が禁煙の大先生なんですね。私が数年前にあの先生の講義を受けて,そして私大変ヘビーしスモーカーだったんですけれども,先生の教えをかしこみて,今完全に禁煙をしております. 今日はその話は最後に付けたいとして資料を差し上げたわけであります。 それでまあこの大学の前身が駒場農学校であるということは皆さんご存じなんであります。正確にはここにありますように明治の7年今の新宿御苑の所に当時の内務省の産業省・・・というのはまあ役所ですね.役所のいわゆる新宿出張所というのがそこに出来て,あの辺は今でも内藤新宿と言っているかどうか知りませんが,内藤さんという大変な土地持ちがいらしたんですね.その土地を利用して当時の環境省がいわゆる試験地ですね.試験地を作った.そこの試験地の中になんて言いますかねまあ勉強する人たちを集めてそういう修学所という.それが建設されたわけですね.要するに作業をしながら勉強をする.ということです.そういう当時修学所というのが出来た。明治もだんだん時が経ってまいりますともっときちんとした勉強するような環境を作らなきゃいかん。というようなことが せられたらしいんです.それでいわゆる修学所を別の所に移してそしていわゆる学校としての形をとる.ということで・・ここにありますように明治10年に当時駒場農場は原っぱです.馬などを飼っている牧場みたいな所がいっぱいあったんですね.そこへ移った.そして修学所もいわゆる農学校という形で学校が出発した.その前後にこれもご存じだと思いますけれども札幌農学校の出来た. 札幌農学校も最初札幌にあったんではなくて,東京にあったんですね.今青山学院が在る所ですかね.あの辺りに出来たんですね.農学校が・・・ 駒場農学校は内地の農業を勉強する,・・養成する.で,北海道はご存じのように開拓地でありまして,開拓をしていたわけでありまして,北海道の農業は内地の農業と違う.従って駒場の学校とは別にもう一つ・・・札幌農学校は北海道の為の農学校を作ると言うことで東京に農学校が出来たんですね.ところがお分かりのように東京のど真ん中で・・まあ当時はど真ん中ではありませんけれども・・東京の原っぱの所でいくら勉強したって北海道の勉強は出来ない.で,やっぱり北海道に移した方がいいというので札幌に移したんですね.そして札幌農学校という名前で・・・従って古い方というか駒場にある農学校の方は駒場農学校というようになったということです. そして当時まあ明治維新後でありますからやっぱりヨーロッパ或いはアメリカの辺りからいろんな事を学ばなきゃいかん.それにはやっぱりエキスパートの先生を招へいすべきであるということで,これも皆さんご存じとは思いますが,最初駒場農学校が出来た頃はイギリスのいわゆる農業の勉強をさせろということでイギリスの先生を呼んだんですね.ここにもありますようにそれが明治9年から13年頃まで数間年です.ところがイギリスから来た先生がこれは私も又聞きでありますから・・私はあの頃居たわけではありませんから,よく分かりませんが,先輩からの又聞きによるとどうもイギリスからきた先生方は評判が悪かった.何が悪かったか.お高くとまっちゃっているんですね.お高くとまって日本の先生とか日本の農場の人たちをこき使い威張ってる.で評判が悪かった.それでもイギリスの先生方は当時の政府の考えているような勉強を教えてくれない.あまり能率のよくない・・というような事でお引き取り願ったんですね.どうも・・・ その代わり当時ドイツの・・勉強している農学の先生達はいわゆるじつだんをやっとる.そういう人にやっぱり来てもらった方がいいんじゃないかと言うことで明治の14年頃ドイツの先生を招へいした.ここにありますように有名なのがフェスカあるいはケンネルこのお二人の先生については皆さんのご存じと思いますがいわゆる実学者なんですね.実学を教えながら・・実学とは何かというと体でいろいろ体験しながら勉強していくという姿勢を持っている先生達だったのでこの先生達はですねもちろん駒場農学校で教鞭を執っておられましたけれども当時調査をいろいろしておられた有名なのはフェスカという先生は土質,土性調査,物質調査ですか.そういうことをやられていて有名であります.ケンネルさんはいわゆる肥料ですね.肥料のやり方いわゆる栄養分,有馬先生の先輩になるかな?あの皆さんご存じかどうか知りませんが京王線の井の頭線ってありますね(渋谷から吉祥寺)あの井の頭線の途中に今の東大前という駅があるじゃないですか.あの駅からちょっと下北沢寄りの所にケンネルさんがかってあの辺りが駒場だったんですね.今は駒場に移っていますが,あの所にケンネルさんがかつていろいろ勉強された水田がある.今でもケンネル水田と言って残っております.今どうなっているか知りませんが,たぶん筑波大学の付属の駒場高校(中学)の    さんが管理していると思います.水田があります.ケンネル水田と言っております.あそこは目黒区であります.目黒区でも非常に大事にしております.一時ですねあそこに大きな道路を造るという東京都のですね。  そういう計画だったんですけれどもあの周りの住民の人達が大反対をしまして、そしてケンネル水田を中心として駒場の  あれが  残っておる. あの例の大学入試センターの中に在ります.元々は駒場の    そういったことでドイツの先生を招へいして勉強した.まあ段々その内に日本の   先生が育って来まして,まあ外国の先生は必要ないというようなことになったということで在りましょうか.それが25~6年まで続いております.そしていろんなことが当時在ったと思いますがようするに   としての形を整えていこうということが段々  られていった。で23年に駒場農学校も文部省に移管をした.そして帝国大学の農科大学ということになったというわけであります. あの当時幕府といってないですね.農科大学,   大学それを総合して帝国大学といっていたようであります. で 当時は東京にしか帝国大学がなかったんですけれどもその後京都に明治30年ですか明治30年に京都に帝国大学が出来ました.今の京都大学ですね.それで京都帝国大学というような形で   東京の今までの帝国大学が東京帝国大学というふうになった訳であります.そしてその前後にですねその頃ですねいわゆる本科の他に実科、乙科という組織を作った.乙科というのはどういうのかというと私は余りよく分からないんですが,要するに実習とか実験を中心に勉強させる.あえて言えば午前中は講習を聞いて、午後は実習を今日はやる.こういうような教育をしている。乙科という教育年月は少し短かったようでありますが,本科と別にそういうものがあった.その乙科というのがその後実科という名前になった.実際に学生が体験するということ実科という名前を付けたんですね.これが今の我が農工大学の前身になるわけであります.そしてちょっと前後致しますけれども明治26年に講座制というのが確立されたわけです。これがなにも農科大学だけじゃなく各大学が講座制を作った。講座というにはまあ読んで字のごとく講義をする大先生が座っている所であります。そこを中心にして学生やその他の人が勉強するところが講座であります。講座制を確立したわけであります。そして26年のこれも資料によりますと農科大学に20の講座が出来た。そして今農学科と言われている学科   大学  大学  環境生物その当時は  その後生産科  なんとかいっておりますがそれに関連した今で言う農学科であります。その後に言われている農学科であります。農学科に4つの講座が出来てます。1つが農学第2講座、これが今の作物学科であります。それから園芸学それから動物昆虫養蚕第2という、動物学、そして養蚕の学校だったんです。養蚕は大事だったんです。当時はご存知のとおり日本の農業の中で養蚕業というのは大変なものでありました。日本の理数学のかなりの部分を生糸で    養蚕の勉強というのはやらなきゃいけない。それから農業物理、気象学というそういったような講座が4つ出来ていた。それで農学第2が第1学部と書いてありましたけれども農学第1は農業経営の講座なんです。ですから今では農業経済学などのコースの方に入っております。それが第1なんです。ですから農業経営というものは当時は重みを置いていたんですね。そんなことで講座が出来ております。それから30年前後に、さっき申し上げた京都に帝国大学が出来ました。その後九州にも出来ました。北海道はだいぶ後になってから出来た。その前に東北に出来たんです。東北帝国大学、そして北海道の駒場農学校はいわゆる北海道帝国大学が出来るまでは東北帝国大学の学部だったんですね。だいぶ経ってから北海道帝国大学が出来た。それから実科はそういうことであります。合わせて今度は農業   という当時の中学校、いわゆる農学校と言いますかね、その先生を養成する養成所が出来たんです。これが  養成所という農業教員養成所を作った。それが建設された。これが後の筑波大学の農学関係の前身なんです。戦後東京教育大学という  なりましたが教育大学の農学部になったわけであります。講座が出来て大正8年にいわゆる農科大学とか農 大学というのをやめて学部制をとったわけであります。で、今までの農科大学が農学部、帝国大学の農学部になった。そして講座はその後ずっと同じように続いておったんです。この辺からちょっと園芸に関係してくるんですけれども、昭和6年になりまして今までの園芸学講座を2つに分けたんです。園芸第1と園芸第2の講座に分けた。なぜ2つに分けたかと言いますと、だんだん園芸関係の産業が発達してきてそしていろいろな分野で、園芸関係のいろいろな分野で人が要求されるようになった。学問も段々進化してやっぱり先生も増やして教育しなければいかんということで、2つ出来た。この後で  しますけれど 当時原たけしという先生が園芸学講座の教授であった。原先生がそろそろ定年ということになって後に丹羽悌蔵という先生と浅見   先生という先生がおられた。お二人とも大先生なんですね。どっちが後を次ぐかという大変な事があったらしいです。それで浅見先生について私の先生なんですが、    丹羽先生については、これは偶然のことなんですが東大を辞められてから明治大学の教授になられました。偶然の事ながら私は丹羽先生が辞められた後に講義を頼まれました。浅見先生にも丹羽先生にもご縁があった。今申し上げましたようにこの二人は優秀な先生でありますから、出来るだけ教授にしたいと、今でもそういうことはよくありますよね。あいつは頭はいいんだけれどどうも実行力がないとか、いろんな事があります。ところがこの両先生は甲乙付けがたい。そこで原先生は、まあ原先生だけが考えられたか分かりませんが、寄付講座を作ろうじゃないかと。今寄付講座があるかどうか知りません。講座を作ると金が掛かりますからその金を金持ちからせしめようと、ちょうど東大の教養の向こう側、渋谷の松濤町という町があります。松濤という所は佐賀の鍋島さんのお屋敷の在った所です。鍋島藩はりっぱな庭を持っていたりっぱなお屋敷だったそうです。それで松濤の鍋島さんの所の造園とかいろいろな野菜なども作っていたようでありますが、そういうことに対する援助を原先生を中心に、駒場の農学部の先生方が応援しておられた。それで原先生はたぶん当時の鍋島侯爵に、実は浅見と丹羽、両方とも優秀で、両方とも教授にしたいので講座を二つに分けたいので寄付してくれないか、と要望されたんですね。そしたらさすが佐賀藩の   じゃあ面倒見ましょうということで寄付講座が出来たんです。それが園芸第2講座といわれている。そちらの方を丹羽悌蔵先生が担当する。園芸講座を園芸第1といってそれは果樹と野菜の関係を   そっちは浅見先生が担当した。第2の方は花と造園。それは多分鍋島さんから注文が付いたんだと思います。というのは鍋島侯爵のお庭番をしてほしいわけです。で、造園を分離したわけです。で今この園芸学講座は園芸第1講座の流れをくんでおります。つまり果樹と野菜を中心とした草笛先生の流れをくんでいる講座であります。そのように推移しておりましたが、昭和10年に皆さんもご存知と思いますが、駒場農科大学、農学部ですね。それから本郷に当時第1高等学校があったんです。今本郷の農学部のあるところに第一高等学校があったんです。東大の隣ですからあそこへ農学部を移すと大変便利になる。総合大学ということですね。それから高等第1学校の方はだんだん本郷が手狭になって、町も栄え、農業するにはあまり上等じゃない。むしろ駒場へ行って勉強させたほうが良いのではということで第1高等学校と駒場農学校を交換することになった。それで昭和10年に高等第1学校は今の東大の教養のところへ移した。そして農学部が本郷へ移った。そしてその時に実科はどうするかという話が出てくるわけであります。実科といわれる程、実習本位でありますから駒場の立派な農場の所に   本郷に行くと農場が確保できていない。実科は成り立たない。もうやめてしまえ、という話もあったようでありす。ところが当時の実科の卒業生の人たちがそれはいかん、存続させるべきだ。じゃあむしろ実科を独立させて実習本意のつまり普通の    で専門学校を作るということで    に東京高等農林が学校というのが出来ることになった。その高等農林学校というのは盛岡、鹿児島などに3つ4つあるんです。一番最初に出来たのが盛岡でその次が鹿児島。盛岡はご存知のとうり今の岩手大学の農学部、鹿児島が鹿児島大学の農学部。ですから東京にはもともと高等農林学校は無かったものですから実科を母体にして高等農林学校を作ることになった。それでどこに作るか?当時も今も変わりなくて土地を買うというのはとてもじゃないんですね。だからただで余り金を出さないで、移れる所は無いかと。それで府中に演習林が在るではないかと。当時園芸学の先生は反対されたそうです。当然ですよね。せっかく近い所に  当時ここは大変不便だったそうです。駒場の先生が演習林に来るのに朝5時に起きてオムスビ担いで来られたそうです。今みたいに電車はあったが、バスは無かったものですから不便だった。すこし脱線しますが当時先生はオムスビ担いで省線?電車に乗って来ていた。今のJRですね。国分寺から歩いて学校へ来る途中に茶店が在ったそうです。ちょうど東元町に着くころお昼頃になるんです。先生は茶店でオムスビを食べて学校に来られた。というようなことが行われていたようであります。ですから当時としては外の演習林に比べればここは非常に便利な所だった。それでこれは私が赴任した頃、当時の林学の古い先生方は演習林を使ってもよろしい。活用してよろしいと。ただし長年育ててきた林がいっぱい在るんだからそれは余り手を付けるなという注文が付いたんです。それで今農場のある所は林だったんですけれども、そこは開拓してよろしい、農場としてお使いなさい、ただし周りはずっと演習林として残しておくこと。そして林学が利用したいということで、つい最近まで、私がいるころは見本林と言っておりましたが、今は広い通りが出来たり、馬場が出来てますけれども、あそこに見本林という林がありました。そこには私のような素人でも吃驚するような珍しい木がいっぱいありました。しかし残念ながらそう言っては悪いが林科の先生は余り一生懸命管理しなかった。それでとうとう無くなってしまいました。そのようにして演習林を利用して農工大を作ろう、前身の高等農林学校が移った。そこで先ほど   先生から三輪先生へ移ったことを申し上げましたが、資料に昭和10年までの園芸講座の教官というのが有ります。初代の、初代というのはこの園芸講座が出来た時ですね。初代の先生、玉利喜造先生は有名な先生であります。その後東大から盛岡の高等学校の校長になった。鹿児島の高等学校の校長にもなられた。その玉利喜造先生が初代の教授であります。当時私も居りませんのでよくわかりませんが、池田伴親という非常に優秀な学生さんが卒業したんですね。それが明治11年生まれの方であります。明治34年に卒業されました。ここに(  )してあります。恩師時計授与と書いてあります。当時優秀な学生さんに1名だけ恩賜の時計を授ける。本当に優秀な学生さん、私の聞いている限りでは農学科ではそうまさおという養蚕の先生で遺伝育種をやられていた先生です。その先生も恩賜の時計を戴いたと聞いております。他にも何人かいらしたんでしょうが私は知りません。池田伴親先生は恩賜の時計を戴いた。したがって池田先生はすぐに助手になられた。それから助教授になっておられるんですが、おそらくすぐに教授になられる候補者だった。しかし残念ながら若くして亡くなられたんです。しかし助教授時代にかなり立派な業績を残しておられるということを聞いております。それで生まれた年は10年ほど早い原武先生が  先生の代わりをやれと。そして教授になられた。この原先生というのは相当な豪傑と言われていた有名な先生です。初代の東京帝国大学の農場長をやっておられた。農場というのが出来て、組織が出来て農場長を原先生がやっておられた。今も昔も変わりませんで当時農場でスイカを作ればスイカ泥棒が入る。果樹を作れば果樹泥棒が入る。どうも学生が盗みに来るらしい。原先生は日本刀を持ってスイカ畑に潜んでおられたという、有名な話があります。そういう豪傑な先生でありました。それだけにさっき申し上げたように園芸学講座を2つに分ける、鍋島男爵に金を出せと言われた。そんな話を残された先生です。今あるかどうか知りませんが渡辺なお先生が居られた頃うちの農場に原先生の写真がありました。今どうなってるか知りませんが。つまりこの農場は駒場の後を継いでいるという自負があるんですね。それで原先生の写真を飾ってあった。そういうことで池田伴親先生は亡くなられたわけであります。原先生の後浅見先生が   それから園芸第二の方は丹羽悌蔵先生が   そういうことになりました。そして昭和10年に高等農林学校が出来た訳でありますが、当時本科の先生が実科の先生を教えておられたんです。従って実科がここへ移っても本科の先生が講義を続けておられたんです、最初のうちは。ただ大変不便ですから今みたいに便利じゃありませんので、本郷からここへ講義に来られるのは大変なことで、やっぱりそれぞれ独立したんだから新しいスタッフを養成してくれないかという事に段々なって、実科に生え抜きの先生が出てきた。園芸学研究室がここへ移ってどういうことになったかというと、最初のうちは講義は浅見先生がしておられたようでありますけれど、そのアシスタントとして当時園芸学教室の助手になった伊藤ひでお先生が浅見先生の後を継いだということです。そして伊藤先生はたしか昭和24年までここの先生をしておられた。昭和24年はどういう年かというとこれも皆さんご存知のとおり学生改革がありまして、新しく大学制度が変わって出来た。今までの3年制であった大学が4年制になった。そして高等農林学校、いわゆる専門学校も資格さえ得られれば、つまりスタッフ等が揃っておれば大学にしてもよろしいということになった。それでこの高等農林学校も大学になろうと。当然そういうことに。ところが当時東京には大学がかなり在った。例えば隣に一橋大学。それから旧師範学校が在った。   と一緒になって学芸大学を作るという話が持ち上がった。それから昔の文理大学、高等師範。これが一緒になって教育大学を作ろうという話が出てきた。この府中の片田舎に居た、あるいは小金井の片田舎に居た東京高等農林学校。小金井は繊維専門学校。お互い結婚相手が居ない。ちょうど距離も近いので繊維専門学校と高等農林学校が一緒になろうと。いいじゃないかという話になったんですね。初めのうちは繊維学部と農学部で出発して後は段々学部を増やして、日本の産業を牛耳るような大学にして行こうと。名前も日本産業大学にしようという話もあったそうでありますが、しかしそれは当時の文部省がだめだと。それは何故かというと一橋大学が戦争中に一時産業大学という名前にしたことがあるんですね。だからその名前は使ってはいけないという達しでその名前は消えちゃったんです。それじゃどうするか。農学と工学。将来は少なくとも農学部、工学部、二つぐらいの学部がなくちゃだめだ。それでこちらが農学部で小金井の方は今は繊維を専門にしてはいるけど将来は工学部にするという希望があった。それじゃあ農と工を一緒にした大学だから農工大学になったんでありますが、これも又聞きなんですが、農工というと農が上に立つわけであります。工が上に立つには工農大学の方が良いのではという意見もあったということです。でもまあ良いんじゃないかということで。やっぱりその頃の先生方は極めて鷹揚なんですね。まあそんなことで良いんじゃないかとで農工大学になった。それで今の農工大学に続いております。もう市民権を得たわけでありますね。私がこの大学に来た頃は工部の先生方は盛んに言ってましたよ。早く工農大学に変えろという話がありました。そんなことで24年に新しい大学が出発したわけであります。ここまでが当時新生大学に、今また独立行政法人に変わりましたけども、しばらくは新生大学と言ってたようであります。なぜ新生大学かといいますと、新しい学生による大学ということで、新生大学ということになりました。細かいことは省きましたが、一通りこの資料に基づいて農林習学所から駒場農学校を経て府中の里に東京農工大学が出来たところまでお話しました。この後はあまり難しいことは止めて漫談的に先ほどお約束した裏話などをご披露したいと思います。今日私京王電車に乗ってまいりました。この大学に勤務してた頃は渋谷に住んでおりました。ずっと京王線のご厄介になってかなりの年数ですね。30数 年間ここへ通ったわけであります。昭和27年当時の京王電車は今の京王デパートの所から出発していました。あそこに駅があった。その前京王電車の駅は今の新宿3丁目にあったんです。それが戦争当時新宿の真ん中に駅を作ると爆撃される可能性があるというのでこっちに移したんです。こっちといっても皆さんお分かりにならないかも知れませんが、今の都庁などある新都心は当時非常に寂しい所だったんです。淀橋浄水所というのが在って、爆撃される可能性があった。とにかくそっちへ移したんです。そのその新宿3丁目に駅があった頃は、ずっと路面電車だったんです。ようするに市電と同じなんです。自動車なんかと一緒に走っていたんです。私がここへ来た頃は京王電車は一両で走っていたんです。たまに二両つないでいた。私が非常に愛着を持ったのはタバコが吸えたんです。全区間禁煙なんか無い訳。だから非常に良かったですね。私その頃ヘビースモーカーだったので、今は15分位で行っちゃうんですが、当時は30分以上かかるんです。のろのろと。電気の機能も悪かったんですね。ラッシュアワーのなると台数を増やすんです。そうすると電車が鈍くなるんです。車掌さんは電気が薄くなったから走らなくなった。ゆっくり行きます。なんていう時代であります。ご存知の方はご存知でしょうが、石井悌という先生が当時居られた。農工大になって初代の農学部長をやられたのが石井悌という先生。この先生は昆虫の先生なんですね。今皆さんの中で昆虫が好きな方は石井悌という名前をご存知ではないでしょうか。当時小学生など昆虫の好きな者は石井悌先生の名前を知らないやつは居ないというくらい有名な昆虫の先生であります。この先生が代田橋に住んでおられて、私は笹塚に住んでおりました。非常に近しくお付き合いがありました。この先生はヘビースモーカーだった。しばらくして段々タバコの被害が出てきたんです。少し電車が混むようになると焼け穴作られたりとか。それで禁煙にしようということで区間を限ってやる。当時調布まで込んでいて府中あたりから空いていた。従って調布までは禁煙。調布を過ぎてからタバコを吸ってもいいと。車両の上に「なるべくタバコをご遠慮下さい」と書いてあった。その先生と朝一緒になるんです。調布に着くとちょっと降りようとおっしゃるんです。それまではよかったんですが今度は府中まで禁煙になったんです。確か全線禁煙にになっちゃったんです。そしたら石井先生は、私もそうなんですが調布にくるまでしか保たないんです。で、調布に来るといっぺん降りようと、タバコを吸ってからまた来るというか。そんな今では笑い話みたいなことがありました。そんな時代でした。 学部長の時はまだ来ておりませんから、来てからいろいろな先輩に話を伺った。先生は学者であったけれども学校のマナーは全然だめな人だったと言われるんですね。面倒くさいことはやらなくていいとかされるので学校は困っちゃうんですね。新制大学になったばっかりで学部長がいろいろ指揮を執っておやりにならないといけないのに。面倒だからやめちまえとかおっしゃるもんだから学部長を引きずりおろされた。ですから学部長の実績はわずかなものじゃないですか。そして代わりに来られたのがそうとうなやり手有働繁三という農学部の先生。壌土学?の先生。この先生は元々兵庫の出身なんですけれども熊本の有働という所へ養子に行かれた。これも聞き伝えですから    ただ私はそうだろうと思うところはある。それはですね有働先生は非常にいい意味の節約家なんです。ですからお金持ちのうとう家  山持ちなんですね。山林を持ってみえる。かなりの財産がある。その財産を食いつぶさないような人を養子に貰うという。それで兵庫出身の・・・前の名前なんていうか忘れちゃったんです。有働さんはそこに養子に入られてうどう家は益々栄えたという話であります。有働先生の時代 2代目の学部長になられた。私はちょうど有働学部長の時に赴任した。園芸試験場から来たんです。有働先生についてはその頃聞いた色々な話があるんですが、あまり話すと・・これくらいにしておきます。私に直接関係のある事が2,3ありまして、それは1つは当時学生の実験の担当をさせられていた。作物の小倉先生とそれから畜産の川端先生の3人で実験を担当することになった。それで4月の予算の時期になると学部長が各課に実験費を配分されるわけです。率にしまして、農芸学科は3、林学が2,農学科が1という配分なんです。それで私たちはですね文句を言いに言ったんです。「せめて3とはいわないが林学と同じ2にして貰いたい」ところがなにを言っとるか農学科の実験はハサミとものさしと秤くらいでやれるだろうという話なんです。農芸化学はガラス器具を使ったり新しい装置を使ったり、農学科はそんなことはやらないんだから1でいいんだ、と。極端に言えばそういうこと。それをようやく1を1.5に。かなり苦労しました。それほど頑固な先生でありました。当時学部長というと なぜ 当時事務局長さんと言うんです。何にも知らない人を事務長にしたんです。事務長が色々やると学部長が困ったんです。学部長が鉛筆舐めなめ実験費の配分までやられていたんです。今はいろいろな建物がたくさん出来まして立派になりましたが、当時園芸研究室の建物は木造一戸建て。といえば聞こえはいいんですが平屋の   男の便所だけ付いていました。あとは部屋2つ。1部屋を作物研究室がお使いになっていて、こっちの便所の隣を園芸学研究室が使っていた。新生大学になった当時農学部は学科だったんです。農学科と林学科と獣医科。3学科で構成していたんです。なぜ3学科で構成していたかというと1学科の教官の数が少ないと文部省がうんと言わないんですね。それで農学科は農芸学科とか当時    先生を集めて農学部を作った。その含みとしては新生大学になって徐々に教官を増やして、農芸学科を独立させる。農業工学は独立させる、という含みをもたせていた。当時私が来た頃は大農学科と言っておりましたけれども。 ところが有働学部長は学部長になられた途端にすぐ農芸学科が独立しちゃったんです。   約束していた農業土木の先生方は「有働けしからん」    だけ先に独立してどうしてくれるんだ、と。うどう先生はそこがたいしたものですね、「まだ機が熟しておりません」と言って     という ですから農芸化学が独立してから、独立したのは1952年。農場土木が当時   といっておりました。それから学科に独立したのが10年遅れたんですね。1962年に   この当時の農業土木や   の先生方の喜びようはなっかったですね。とにかく10年間我慢しておられたんです。その間「有働けしからん」とやっておられたんですからね。私なんかしょっちゅう伺っておりました。そして当時中島先生がやっておられたか、有働先生かそこの所は確かではありませんが。学科独立によって建物を新しく造るということになったんです。そういう調整になってきたんです。農業土木の部屋を、ここでは多分3号館になると思うんですが、最初に出来た鉄筋の建物です。これはどうやらうどう先生は      ただその建物を造るについていろんな事がありました。どうせ作るんだから農場の広いところに作って、将来農芸化学を         今の農場の所ですね。農場のこちら側に建物をずっと造るべきである、というのがうどう先生方の主張だったんです。当然渡部ナオさん以下   猛反対です。農場をそう簡単に潰された日にゃとてもじゃないと。あーだ、こーだとやりながらとうとう今の位置に出来たんです。昔よりはずっと今の方が進出してます。前はもっとこちら側にありました。とくに園芸なんかは園芸研究室付属の農場があったんです。実験農場が。今とは全然違うんですよ。トータル2反分くらいあったかな。ぼくが1人でやってたんですからね。今みたいに前田さんみたいなああいう人は居なかったですから。そういうこと。 だから昔園芸研究室に果樹もあったんです。果樹の実験の     農場の果樹も使いましたけど、       先生はうちの果樹も使ったんです。まあそんなようなことであります。その後     3号館が出来たので。1号館からずっと出来たんです。本来ならば農業工学の建物が1号館なんですけれどね。やっぱりね農芸化学の入っている所が1号館!     なっている。またこの1号館が出来るときに大騒動があったわけです。それは有働先生の時代になりますか、近藤頼巳という先生の時代なんですけれども、1号館林蚕学科というのが独立しましたんでね林学科と蚕学科と農芸化学を一緒にした建物を造る。作る場所はさっき申し上げましたがこっちからずっといくんですが、1番候補に上げたのが駒場寮。今の1号館の所に駒場寮があったんです。寮は小金井の所に新しい寮を作ってそっちへ移す、という話になった。なぜ移す事になったかというと今の1号館の建物が寮の場所が一番いい。それで学生を小金井の寮に入れることにして、こっちは1号館を作る。ところが学生諸君は駒場寮からなかなか動かん。色々なことがありました。それで結局は動いたんですけどね。大変なドラマがあったんですけどね。まあそういうことで1号館が出来た。そして2号館ということで      私は来てからもちろん出来たわけでありますが、園芸研究室は2号館の出来るときに私が農学科の部屋の配置やなんかをする役割を分担させられました。各先生良い所欲しがりますね。当然のこと!ですから私は、園芸は1番悪い所もらうはめになっちゃうんです。ただ1つだけお願いしたんです、園芸の研究室は農場、圃場の見える所を確保したい。今ここの一番端、どなたの部屋かな?鈴木さんとこ?   の部屋。角のベランダのあるところ。あれだけは確保したいと思ってね。それだけは確保させてもらった。後はみんな適当に好きな所を取りなさいって。今のようになったんだと思うんですよ。まあそういうことで、この辺であれなんですが、話せば裏話などいっくらでもあるんですけれども。もう一つだけ、園芸研究室に関連して。まあこの2号館で皆さん落ち着いたんです。落ち着いたんですが、今度マスターのコースが出来たんですね。学部の上にマスターが出来た。そうなるとひかく面積というのが増える訳です。とこの2号館も増やして良いということになった。増やして良いったって、こんな事考えなかったですから、今みたいな事、当時考えませんから、別の所に作ろうと。で結局2号館に居たのが農学科と食物防疫科と養蚕ですね。足りない部分を新しく建物を造ろう。で、建てたのが今の6号館ということであります。これが農学科にとって非常にお気の毒なのは、この建物を造るときが丁度東京オリンピックの時です。もうね大工さんや左官屋さんがねオリンピックの施設を作るのに手一杯で府中に来ないいんですね。だから当時監督さんは朝、上野まで行って、  集めてきて、壁塗りなんかやらせるんです、というようなことがありました。佐藤工業という会社がやっていたんです。学校は文部省の予算ですから壁塗りなどは期日までに納めなきゃいけない。ですから非常にラフなんです。ここは後で作ったんですが。平沢さんの住んでいる所なんかは非常にラフなんです。いろいろあったんですが。今度新しく6号館を作るに際してはなるべく立派なものを作ろうじゃないか、そこでだれがどこの研究室が向こうへ行くかと。これがまた大変なあれがあったんです。まず農学科で決して動かんと仰ったのが小倉先生、それで森田の所は動けと言うわけです。なぜだというと、平沢さんの所の丁度こっち側に畜産の研究室がある。ニワトリをを飼っていた。朝、小倉先生が学校へいらっしゃると廊下をニワトリが走ってる。で、森田あっちへ行け、と。それやこれやで   その時も私は    やったもんですから、貧乏くじと言いますか、残り物をもらったわけであります。これが又運悪く、いわゆる石油ショック、第一次石油ショックですから、もう業者の人達がやり切れなくなった。どんどん資材が上がってきている。ですから6号館は欠陥建物です。そういう意味では。ですから地震なんか危ないですよ。だけど学校当局は未だに放置したまま。で、環境保護の借りてらっしゃる5号館というのは環境保護の為の予算で作ったやつです。あれはしっかり作ってあります。だけどもう6号館は危ないです。あの建物は申し訳ないけどあまり上等じゃない。ただ私はその時も園芸は圃場の見える所。あそこのコーナーを頂戴したんです。私は色々な事を経験しましたけど、まあせめてそんなことだけは一生懸命やったつもりであります。荻原さんからの話で昔の歴史を少し、前半はそのような話をしたつもりであります。後半は私の思い付き話で・・・・・・・・・・

 

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