十二月二十四日、いわずと知れたクリスマス・イブの昼下がり。空は一面と晴れわたっていて澄んだ淡青色が少し眩しい。下を見ればそれとは対照的な銀白色の雪のまた違った輝きに圧倒される。まるで幸せな恋人たちへのプレゼントのような午後である。いつもの私ならお気に入りの服を着て、心弾む素晴らしい一時を過ごしているはずなのに、ただ部屋に閉じ篭もっている。暖房の熱が逃げていくのにもかかわらず、私は窓を開けて、外の冷たい風を肌に受けていた。
……失恋したのだ。
突然だった。突然、私に向かって『別れよう』と一言、顔色も変えずに言った。そして、私の返事も待たずに目の前から去っていった…。
あまりにも突然だったので、最初は彼の言った事が理解らなかった。でも、悲しいことに、状況を把握するにつれて私の心に浮かんできた感情は彼を批判する言葉ばかりだった。
ひどい、最低、何を考えてるの、人でなし、ばっかやろうっ!
それらの言葉を彼の背中に投げかけてから、私はその場にしゃがみこんでワーっと泣きだした。
初日はそれでよかった。
しかし、二日目からはそうはいかなかった。
文字どうり、『呆然自失』状態だった。寝ても覚めても彼のことが頭の中に浮かんできてどうしようもなかった。これほどまでに彼の存在が根づいていることを思いしらされたものだから、なおさらだった。
そして今日。惰性にまかせて、私は頬づえをついて窓から外の景色を眺めていた。
視線を下の方に向けると、そこはまるで人間の海のようである。どこを見ても人間・人間・人間。世の中に星の数ほどの人間が存在していることをいつもながら思いしらされる瞬間だ。だが、下を歩いている人間の中に私の知り合いはいない。それは今日に限らず、いつものことである。毎日眺めていて『見掛ける』人間で顔を覚えてしまった人ならいないこともないが、それらは『知り合い』ではない。
いったい、下を歩いている人のうちの何人が知り合いなのだろうか。一人の人間が一生かかって出会う人間の数なんてたかがしれている。きっと、世界の人口の1%にだって程遠いだろう。その限られた範囲の中で人間は自分の人格を形成し、友達を作り、恋をし、結婚する。恋に関して言えば、誰だって自分の趣味に妥協することなく、精一杯交流範囲を広めてフィーリングの一致する人を見つけて恋をするだろう。
私だって例外ではない。彼と知り会って、つきあって、本当に幸せだったのに…
混沌とした思いが一気に込み上げてきて、つらくなって私は思わず目を伏せた。
すると、あふれた涙をそっとぬぐってくれるかのように風が私の顔をそっと触った。しかし、ふわっとしたその肌ざわりに心が和んだ刹那、用は済んだとばかりに風は去ってしまった。
風と彼は似たもの同士だと思った。私を楽しませてくれる存在であり、私から去っていってしまう存在。この風も、彼が別の女性のもとへいったように他の人のもとへ訪ねるのだろうか。私にしたように、和ませては離れていくのだろうか。もし、風と話ができるのなら、この辺りの機微を教えてほしいと思った。
だんだん悲しみに沈みそうになっていた私は気分をかえるべく、本を読むことを思い立った。立ち上がって本棚の前にいき、私は、読む本を選び始めた。
ドストエフスキー、ニーチェなどを筆頭にたくさんの本が並んでいる。どれもが私のお気に入りの本だ。どの本も何度も何度も読み返したものなので、タイトルを見ただけで、まざまざと内容が思い出される。
本の背表紙を指でつたいながら、選んでいたが、そのうち面倒になって、本名を見ることなく無造作に一冊取り出した。タイトルは『罪と罰』だった。
彼にピッタリなタイトルだと思った。
でも、ふと、これは私にもピッタリなのではないのか、という思いが頭の中をよぎった。
そんなはずはない、とばかり、プルプルと頭を振って私は本を読み始めた。
本はいい。一方的に与えてくれる教訓、戒め、人生観、その他もろもろ、例えそれがどんなに作者のエゴや偏見の満ちていようとも、文として読者の目に晒すことを否としないその作者の確信がよい。少なくとも今の私にはとても心地よく感ぜられた。
本を読むと、さまざまな感情が流れこんでくる。特に精神的にめいっているときなどはなおさらである。今は精神的に苦しんでいる。こういうときは安らぎも欲しいが、一番欲しいのは何と言っても苦しんでいるのは私だけではないという確信だった。
私がたとえ無造作にこの本を選んだにせよ、やはりそういう心理が働いたのか、この本は私の精神安定剤がわりを務めるにはうってつけの本だった。
それで、苦悩に苦しんでいるのは私だけではない、話の中の登場人物、それに作者と読者。とにかく私以外の誰かが苦しんでいるのが、改めて理解った瞬間、何故か心の底にえもいわれぬ喜びが湧き上がってくるのを抑えることができなかった。いや、抑えようともしなかった。
そのような心理の裏には、多分一人ぼっちで孤独だと自覚するのが怖いという気持ちも潜んでいたのだろう。そして、その歪んだ感情が屈折して表に現れたのかも知れない。
しかも私には何もしないでただひたすら自分と向きあう度胸も勇気もない。それでそのきっかけを無意識のうちに本のなかに求めていたのかもしれない。
深層の本性をちょっとだけ垣間見て初めてそう思った。
そう気づいた私は、自分のことを弱いと思った。
自覚して、それから、本を読むことよりも自己分析に耽っていことに我返って思わず苦笑した。
でも、読み始める前よりも幾分心の中の混沌から抜け出すことができたのでは、と思った。
それで、私はさっきよりも爽やかな気持ちで再び本の世界に入っていくことができた。
ペラペラとページをめくって読み進めていくとさっきは気づかなかったはさみものに気づいた。
何だろう、と思って取り出してみたら、それは写真だった。それを覗きこんだ私の目には、写真が取られたあの時から止まったままの笑顔が映っていた。
私と彼。何の邪気もなく無心に微笑んでいる。
それは、憎むべき、抹消すべきものであると同時に懐かしむべき、保存すべきものだった。
複雑な思いを抱えてその写真に見入った。
それと同時にこのように彼に関するものを見るたびにこう感じる、いや、感じざるを得ないと思うと何となく切ない気がした。
私が彼から受けた影響はとても大きい。そして深く私の中に根づいていてそう簡単にはぬぐいされそうもないものだ。
ふと、それが私が彼のことをなかなか忘れることの出来ない一つの原因なのではないのかと思った。
試しに思い浮かべてみる。そういえば、今、私が手にしているこのドストエフスキーの本だって彼の影響だ。他には今の私の服の趣味だって、明らかに彼の影響だし、音楽や色彩のなかにも色濃く彼が息づいているのだ。
忘れられないのも無理はない。しみじみと思う。昔から培われてきた癖がそう簡単になおる筈がないように、断ち切れるはずもない。
だからといって、このなんともいえない状態を甘んじて受け止めるのはいやだし、まず、私のささやかなプライドがそれを許さなかった。
それに彼のことを引きずって、この先まともな恋愛ができないという事態だけは避けたかった。
どうしても彼を嫌うことのできなかった私だから、よけいに彼のせいで、と彼のことを悪い印象に持っていきかねないような事柄を自分のなかに残しておきたくなかった。
我がままだと思った。それでも、このような自分のわがままを満たしたいと思った。そして、抜け出したいと思った。でも、ただただそう願っているだけでは何もならないということは百も承知していた。
抜け出すためには」」」
きっと、その糸口は私の心の奥深くに眠っているのではないかと思った。
でも、自分の心層から本音を導きだすのは時間がかかる。そう思うと卑怯な私はやる気がなえてしまいそうだった。臆病な私は自分の本音と向きあうことを恐れた。
誰かに晒すわけでもないのに…
思い起こすことで他者に内面が暴露されるわけでもないのに…
そう思ったら、妙に写真からの彼の視線が気になってしまって、思わず写真を破りさいてしまった。
本来なら在り得ないことをしてしまったと強い自責の念が私に襲いかかってきた。
激しい後悔の気持ちが、火がついたように襲いかかってきた。どうしよう、何ということをしてしまったのだ。最愛の彼に対して…。はずみでしたこととはいえども、許し難い冒涜のように思えてならなかった。 その気持ちに狂わされそうになりながら、でも、どこかでそんな自分自身を客観的に冷ややかに見ている自分の精神に気がついた。
もしかしたら、今の自分が自分で認識している自分は本当の自分ではないのもしれない。顔に化粧を塗って世間の人に自分の素顔を晒さないように、自分の精神にまで化粧を塗ってしまっているのかもしれない。 そう思うと何となく自分がそら恐ろしくなった。自分自身までをも欺くことを何の抵抗もなく受け入れてきた今までの自分は一体何だったのだろう 虚像の自分を本当の自分だと信じて疑わなかった今までの私は一体どうなるのだろう。
恐るべき事実に気づいた私は『抜け出す』ことよりもむしろ『壊す』ことのほうが先決なのではないのかという考えにとりつかれていた。いや、もはや、今の私にとっては『抜け出す』ことなど意味を成さず、眼中にもなかった。
それで、少しずつ良い方向へと向かっていた精神もだんだんと歪んでいったのだった。
だって、もし、今までの私が『化粧』をしていたのなら、彼のことを好きだった私も私ではないのだ。
ならば、彼に対する今までの私の思いもまた偽物であり、『悲しい』と思ったり、『辛い』と思ったりした今までの思考過程、感情のすべてまでもが『化粧』を施されていることになるのだ。
そうであるなら、彼のことを自分の中で消化し、思い出を無に帰そうと躍起になっていた神経も偽物で何の意味もなさないことになってしまうのだ。
そう考えると、無性に笑いたくなった。抑えようとしても抑えることのできない、腹の底から湧いてくるような笑いだった。 陰湿で邪険で嘆かわしくて何処かがこときれたような… 今までの肯定的な自分がまるで道化師のようで、嘲笑いたくなった。
このように自分のことを嘲笑することはこの上なく幸せだった。罵られることが心地よく感ぜられた。
自分で自分の『罪』を『罰』することを否とせず、かといってあがなうわけでもない。ただただ、内面の混沌とした思いを反映するかのように、私は笑っていた……
…どのくらいの時間がたったのだろうか。
笑い疲れた私はいつのまにか眠っていた。窓から入ってきた風の冷たさに、はっと我に返って思わずあたりを見回した。
先程まで窓から差し込んでいた太陽の光も消え失せていて、その代わりに夜独特のけばけばしいネオンの光が私の部屋の中をほのかに明るくしていた。
それだけではない。夜になると、それまでのささやかな、耳あたりのよい笑い声とはうってかわって、半狂人のような甲高い声がうっとうしいほどまとわりついてくる。
いつもの私なら多分すぐに気分を害して毒毒しい顔つきで窓を閉めていたに違いない。でも、今日のわたしはこの半ば普遍的だろうと信じて疑っていなかったこの感情をいつものように受け付けなかった。
善い、と思ったのだ。
それで、もっともっとそれらの『騒音』を耳に焼き付けるべく、再び窓辺に頬づえをついて夜の光景を眺め始めた。
そうしていると、何故か昼下がりにこうして自分が頬づえをつながら街の様子を眺めていたことを思い出した。
『偽り』の私がこうして彼のことを考えていたのを『真実』の私が思い出したのだ…
凄い矛盾だと思った。
そして、私の中に嘘・本当の自分がいるんだということをまざまざと思い知らされてしまった。
やはり、過去を壊してしまわないと。
この概念がグルグルと頭の中を回りだしてとまらなくなった。
過去を壊すこと。具体的に言ってしまうと、結局は偽りの私の象徴である『彼』を殺してしまわなければならないのだ、という概念だった。
それが私の身体と精神を支配した。
善悪の区別、罪、理性もろともが頭の中からきれいさっぱり排除されて、私の考えだけが従うべき規範であり、モラルとなっていた。
そして私は、風の冷たさをものとせず、暖房の暖かさを忘れて、そのまま窓辺に頬づえをついて、夜の街に遊ぶ人々の群れをなめるように、かつ、冷ややかな眼差しで眺めた。それから、そのままの姿勢で彼を殺すための計画を立て始めた。
そのときの私は、内心の葛藤、精神の異常な高揚とはうらはらに、気分は至って冷静で、顔つきもナイフのようにとがっていて、もし、そのときの私を見た人がいたならば竦み上がってしまうほどの冷淡な眼つきをしていただろうと思う。向かいのビルのガラスにひっそりと映っている私自身がそれを証明していた。
私は、ガラスに映っている私の瞳をみつめながら、この悲しき遊戯に耽っていたのだった。まるでそうすることが義務であり、当然の報いであるかのように… まず、彼を殺すためには呼び出して会わなければならないと思った。何となく闇討ちは嫌だと思ったからだ。
そのためには、彼に怪しまれないように振る舞わなければならない。ということは、私が私らしくいられるところで、しかも『現在』の私が出入りしても誰にも怪しまれない所でなければ。
…一番怪しまれないのは学校だ。
でも、人目につきやすすぎる。
でもでも時間と場所を考慮すれば何とかなるかも。 そう思い直して、実行場所は学校に決めた。
次は実行日時だ。まずは日。今日はクリスマス・イブだ。日は出来るだけはやくて劇的な日がいい。
正月。趣のある日でなかなかよい。でも、もっと幸せなカップルのためにある日のほうが、皮肉げでいいのではないか。一番もってこいの日は今日だけど、準備には念をいれるために少々時間が必要だ。
ならば、明日の夕暮れはどうか。
巷はクリスマスで人は浮かれ騒ぐことだろう。そんなシチュエーションを尻目に密やかに行われる殺人。こんなに劇的でかつ趣深い場面は滅多にお目にかかれまい。
そう思ったら、計画を立てることがだんだん楽しくなってきた。
しかも、その動機が過去との決別にあると思う人はいまい。きっと、世の中の人は愛憎の反動だの、別れ話のもつれだの、そういう類のありがちな理由を彼の死におしつけるに相違ない。
そう思ったら、世の中がひどく滑稽なもののように思えてならなかった。
そうやって一通り、訳のわからぬ優越感にひたってから、今度は凶器について考えた。
絶対にナイフがいいと思った。
それも一度も使ったことのない磨きぬかれたピカピカのナイフ。
柄は薄茶色の木製ので、見た目に優しさを与えてくれるようなの。大型のじゃなくて、果物ナイフのような小型のやつ。
明日の朝、買ってこよう。
これで日時・場所・凶器は決まった。
あとは、彼を呼び出すことだけだった。
手紙じゃ予定時刻までに届きっこないし、わざわざ彼のマンションまで行くのも嫌だった。それに、今は顔をあわせるべきではないと思った。
それで、電話で『会いたい』と訴えかけることにした。
受話器を持ちあげて、手慣れた指つきで番号を押し始めた。
偽りの私の後遺症であった。
押しながら、もし、彼の声を聞いたときに過去の自分が再び芽を吹き出してしまったらどうしようかという気になった。
そういう不安と半ば楽しげな気持ちの入り混じった心持ちで、鳴り響く無情なコールを聞いていた。
『もしもし』
聞き慣れた声が耳の中に入ってきた。
少しの間、金縛りにでもあったかのように身じろぎひとつできなかった。無言の私を不思議に思ったのか少々いぶかしげなトーンで
『どちら様でしょうか』
という声が返ってきた。
その一声ではっと我に返った私は
『私よ』
と言った。
向こうはとてもびっくりしたようで、ちょっと息をのんだような声が聞こえた。それから、ため息をついて、面倒くさそうに
『一体何の用だ』
と、冷たくあしらった。
『明日、会いたいの。どうしても』
と、切実な声に偽って、訴えかけた。
『何のために。俺たちはもう終わったんだろ。もう関係ないよ』
と、またもや冷たくあしらった。
でも、私が、
『どうしても会ってみせたいものがあるの。それに言いたいこともあるし。絶対きてね、絶対に。もしこなかったら自殺するわよ、私。そして遺書にあなたの名前を書いて、世間から白い眼でみられるようにするわよ』
というと、
『わかった。行けばいいんだろう。お前は相変わらず我がままで自分勝手だな。人の都合も考えないで。それで何時に何処へいけばいいんだ』
ときりかえしてきた。ムッとした私は、
『自分勝手なのはあなたのほうでしょ。いきなり別れる、なんて言いだして』
といいかえしてから
『明日の四時に学校の中庭の噴水の前で』
と付け加えた。
『わかった』
と、素っけない口調でいってから、電話が切れた。
受話器を置くと、安堵のため息がもれた。その心にはもはや、愛など宿っていなかった。
彼の声を初めて耳にしたときはとってもやばいと思った。でも、会話を重ねていくうちに、心から、息を吹き返しそうになっていたあのくすぐったい気持ちはだんだんと冷めていくのがわかった。
もう、偽りの私が、私にとってかわるチャンスの一つは失われたのだ。
それだけでも大きな収穫だと思った。
もう一回ため息をついてから、頭の中で明日のことを整理して、それから、寝るべく布団の中にもぐりこんだ。
だが、その夜は、神経が昂ぶっていて、やはり寝付くことができなかった。
でも、どうしても寝て、身体を休める必要があったので、リラックスするために、私の大好きなL′Arc〜en〜Cielを聞きながら寝ることを思いたった。
ムクっと布団から起きだして、コンポの前に座ってセットをし始めた。
再生してから、布団にもぐりこんで、曲を聞いていた。流しているアルバムは『Tierra』である。 一曲目は『In The Air』。二曲目は『All Dead』。
私はこの曲が妙に耳に残った。
『彼にも与えてあげたい抜け出せない悪夢を今すぐ 彼にも与えてあげたい狂いそうな恐怖を何度も』 今の心境に近いフレーズ。それを切なく歌い上げているのに感動して何度も何度もその曲を繰り返してきいていた。
『All Dead』に包まれながら、またもや、いつのまにか寝てしまっていた。昨日から窓は開けっ放しだったので、いくら、暖房もつけっぱなしだったとはいっても部屋のなかは冷え冷えとしていた。夜中に雪がまた降ったのだろうか、部屋のなかにもごく微量ながら雪が舞いこんでいた。今日も昨日と同じように晴天で、明るくて眩しい太陽の光が昨日と同じように私の部屋の中に差し込んでいた。
思いっきり大きな伸びをしてから、簡単に朝食を済ませ、さっさと身支度を整えてから、昨日たてた計画に従って、ナイフを買うべく、近くのショッピング・センターへとでかけた。
そこで、気にいったナイフを見付けて購入した。
それから、すぐに帰ろうかと思ったが、思い直して今日の決別の儀式にふさわしい衣装を探しだした。
色は潔い白がいいと思った。
しかし、潔い白は私のかわりに雪が演出してくれているし、他人の死に立ち会うのだから、生の象徴とでもいうべき赤がいいと思い直した。それで、私は真紅のセーターとスカート、それに真っ黒のタイツを買うことにした。
それらの品物をかかえて家に戻り、隅っこにおいて昼飯を食べた。
それから、窓辺に寄りかかって、外界を歩く人の群れを眺めた。
昼のきつい日差しを浴びながら歩いている人々は眩しかった。
私にはないものだった。
私には無縁なものだった。
下を歩いているうちのカップルの一つが悪戯心をおこしたのだろうか、いきなり、上を見上げて手を振ってきた。
その眩しい笑顔といったら。
思わず目をすぼめて、何の返答もすることなくただただ見入ってしまった。
そんな私をみて、返事がなかったことが原因なのかちょっと悲しそうな瞳をしてから、歩き出してしまった。
もしかしたら、すぼめた目のなかに眩しいものに対する畏敬のほかの、密かにほとばしった嫉妬の色を、彼らは見てしまったのかもしれない。
他人に分け与えることのできるぐらいに幸せにひたりきっていて、心に余裕のある彼らに対する嫉妬を。 でも、そんなことはもうどうでもよかった。
迫りつつある決別の時間に思いは移行していた。
そして、目に見えない近い未来を見据えようとでもするかのように、目の前の空中を凝視していた。
そうするうちに刻一刻と時は動き、時計は三時をさした。
軽くシャワーを浴びて、さっき買ってきた服を着て鏡と向きあった。
鏡の中の私はどことなくはかなげだった。
それから、丹念に化粧を塗った。丹念に、丹念に。 そうするうちに、私は精神が高揚してくるのを感じた。まるで、肌を通じて精神にまで化粧を塗っているかのように。
そうやって、彼の知っている、薄化粧の私とは違うんだということを理解らせようとした。
でも、多分、過去との決別に成功したら、もう二度と化粧はしないだろうと思った。
そうして、全ての準備が完了して、立ち上がって、カバンをもって部屋をでた。
どこをどう通ってきたのか意識もないまま歩いて、学校にはいり、中庭へいくと、既にもう彼がきていて噴水のところに座っていた。
彼は、私の姿を認めるや否や、
『話ってなんだよ』
と言った。
その口調には愛情も思いやりもなかった。
それで、密かに胸の底に潜んでいたかすかな不安もはじけて、どこかに飛んでいってしまったのだった。 私は少しうつむいた。
彼にどうきりだそうかちょっと悩んだ。
私の心の葛藤、今までの思考過程、すべて言ってしまってから、コトを実行しようかと一瞬思った。
でも、ちゃんと聞いてくれるとは限らなかった。
無意味に晒すのは嫌だった。
言わないでおこう…
そう心に決めて、ゆっくりと顔をあげた。
その表情は、何かしら決意に満ちていて、その瞳には冷酷ささえ宿っていたのかもしれない。
その瞳で彼を見据えると、彼はちょっとたじろいだように見えた。
その様子を眺めながら、私はゆっくりと話だした。 『私…過去と別れたいの。そう、過去と…。そのためにはあなたの協力が必要なの』
『どういうことなんだ?』
その問いかけに、答えようともせずに先へと言葉を続けた。
『私の過去を振り返ると、そこには必ずといってもいいほどあなたの影があるの。断ち切れていないの。だから…』
『だから?』
『私はあなたの存在を消してしまおうという結論に至ったのよ…』
そういって、カバンの中から、切れ味のよいあのナイフを取り出して、さっと彼に向き直った。
『何の真似だ…!』
あとずさりながら、彼は叫んだ。
その腕を掴んで、私は
『にぶいわね…。あなたをこの世から抹殺するといっているのよ、私は!』
そう言いはなって、私は何の躊躇もなく、その刃を彼の胸に突き刺した。
『うっ…』
私の顔をひっかきながら、ズルズルと滑り落ちるように倒れていき、そのまま地面に横たわった。
ヒュウと一吹きの風が通りすぎた。
何もかも終わった…
目の前に横たわる彼の屍を見ながら、そう思った。 いや、そう思おうとしていただけなのかも。
でも、実際に胸の中に広がっているのは、やりようのない、むなしさだった。
『もしかしたら、もしかしたら…』
ぐるぐるとその言葉だけが頭の中を駆け巡った。
言いようのない敗北感がとどまらない。
『もしかしたら』
」私は間違っていたのかもしれない」
『もしかしたら』
」ワタシコソガニセモノナノカモシレナイ」」
何もかもがぐちゃぐちゃになってしまったようだった。今までに私が得てきた全ての価値観をひっくりがえして、これこそが真実の私なのだと認めて自信をもって肯定して、そして、過去を偽りと蔑み、捨てたのだから。
口から薄暗い笑い声が漏れた。
だんだん大きくなっていって、それは叫び声にまでなった。
クルッテイル…
そんな自分が滑稽でたまらなかった。
そうしていると、ふいに、心の中に、悲しげな表情をしたワタシが浮かび、色濃く現れた。
その彼女は必死にタスケテと叫んでいた。
そして、キエテと訴えかけていた。
その瞳には、アナタハホントウノワタシデハナイ、アナタハワタシノカレニフラレタコトデヒソカニココロノナカニウマタ、ニクイ、コロシタイ、トイウヨクボウヲカナエルタメニウマレタ、ヨクボウナケシンナノダ!と刻まれていた。
じゃあワタシはどうすればいいの?
と、問いかけると、彼女は冷静にキエナサイと言いはなった。
わかったわ…
そう言って、彼の胸から血の滴ったナイフを抜きだした。
それから、誰に告げるでもなくサヨナラとつぶやくと、そのナイフを一気に胸に突き刺した。
そのとき、一吹きの北風が二人の上を通り抜けた。その風は、この前のようにまとわりつくことなく何事もなかったかのように通り過ぎていった。
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「 今日はクリスマス。どこからともなく笑い声の満ち溢れる日。街はざわめき、ひしめいている。その中をさっきあの二人の上を通り過ぎていった北風がピユーっと吹き抜けた。そこには、ほのかに血の匂いが混じっているかのようだったが、それに気づいた者は一人もいなかった。
ダイジェスト版
『イエ・イエ・コスメティック・ラヴ』
我がままの固まりでできた君はダイヤモンド
プライドの化粧は落とせない汚れが美徳
色男の口説文句はまにうけちゃいけない
Hey shake me
Hey fake me
いなせな君とチューンアップした
ピンクのジャガーを乗り回すのさ
強烈なリスクでブッ飛んで
覚悟を決めた
午前0時にはコスメティック・ラヴ
波乱万丈で
危険なメロドラマ
午前0時にはコスメティック・ラヴ
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