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香りについて

 実験(特に合成)に取り組むとき、マニュアルやレシピがあったとしても、結果に個性が現れることが頻繁に起こることは以前書いた。五感と勘(経験)を働かせて、マニュアルの小修正を意識的または無意識的にできる能力があるかどうか、ということだろうが根拠はない。簡単な例として、アニオン重合の成否が「色」の変化でわかったり、合成したポリマーに低分子成分が関与する匂いや味(食べたことはないけど)はしてはいけない(モノマーとか溶媒のコンタミがある証左となる)。五感の中で、視覚と聴覚に関しては、情報としてデジタル化され、ネット等で情報の拡散・収集が容易と言えるが、嗅覚(olfactory)、味覚、触覚はそうはいかない。本来、人間の五感の量的関係には、適切なバランスが存在しているのではとの仮説を立てると、現在社会では視覚・聴覚が圧倒的になってしまって、外部とのコンタクトにおいて本来のバランス感を失ってしまっているのではとも思う。嗅覚のメカニズムが解明されたのは、最近といえば最近の1991年のことで、コロンビア大学のRichard Axel博士とフレッド・ハッチントンがん研究所のLinda Buck博士による(L. Buck, R. Axel, Cell 65, 175-187(1991))。(両博士は、2004年にノーベル医学生理学賞をゲットしている)。

 今回はこの嗅覚(香り)に関して思うところを・・・。

 なぜ私たちは、実験室でトルエン、スチレン、テトラヒドロフラン(THF)等々を匂いで識別できるのだろうか?匂いの元になる物質(匂い分子)は、数十万種類あると言われる(有機化合物が200万あり、4-5つに1つに匂いがあるとされているようだが、私たちの研究室の試薬類はもう少し高い確率で匂いがあると思う)。嗅覚の仕組みに関しては、10年ぐらい前に、BASEの佐藤先生に初めて教えていただき、とても感動したことを覚えている(農工融合のプロジェクトに関してのミーティングの雑談の中で・・・)。概略は次の通りである。

1)嗅覚の仕組み
 ニオイ分子を取り込む構造を持った嗅覚受容体(嗅覚レセプター)を有し、そこにニオイ分が吸着することで、嗅細胞が刺激され電気信号へと変換される。ヒトの嗅覚受容体の遺伝子は約1000個(とても大きな数字のようである)あり、そのうち約400個が機能していると言われる(400個の異なるセンサー)。感度を示す嗅細胞の数はヒトでは4000万個である。ちなみに犬は2億個で、受容体もヒトの倍ぐらいと言われる(感度も識別能力も高い)。

2)なぜ識別できるのか
 一般に1種類の匂い物質は複数の嗅覚受容体を活性化し、1つの嗅覚受容体は複数の匂い物質によって活性化され、嗅覚受容体と匂い物質は多対多の組み合わせによって認識される。解説文(東原和成、化学と生物, 41(3), 150 (2003))に詳しいが、このことが400のセンサーで数十万の匂いを識別できる仕組みである。パターン認識として、このパターンはトルエン、これではTHFとなっているのである(下の例では3つのセンサーだが、これがヒトの場合400個並ぶ)。

        
  

3)濃度依存性
 低濃度だといい匂いでも、高濃度だと嫌な匂いになる場合がある。ある匂い分子に対する応答性が、受容体によって異なる(下図)ので、こんなことが起こる。

   

4)混合物について
 視覚・聴覚との違いとして、混合物になったときの、脳が受け取る情報の質がある。視覚はスペクトルの和として色を認識する(A+BがA+B)し、聴覚ではオーディオ機器から聞こえるオーケストラの演奏は、周波数によって分けて認識され、いろんな楽器がある程度別々に聞こえる(フーリエ変換のようなシステム)。嗅覚の場合、匂い分子によって各受容体の感度が異なったり、受容体の選択性(例えばある受容体はX,Yの混合物に対して、別々では両方を認識するが、混合物だとX分子だけを認識するようなことがある)や、上記の濃度依存(混合物だと成分濃度が異なるので)に絡んでとても複雑になる。

 例えば、イチゴとパイナップルの香り成分を下記に示すが、(Y. Tokitomo et al, Biosci. Biotechnol. Biochem., 69, 1323 (2005))、メイン成分である4-Hydroxy-2,5-dimethyl- 3(2H)-furanoneをはじめ共通成分が多いが、極端な話、全く違った香りとなる。

  


 シャネルNo.5が革新的といわれた理由は以下の通りである。それ以前は、良い香りを混ぜれば良い香水ができると考え方がベースだったが、アルデヒド系の化合物といった単独では嫌な匂いを、よい香りと併用するというのが初めての試みだったのだ。その後、香水には香りの奥行きを深くするために、臭い匂いを添加することが普通だという。

 実験室でもよくあることだが、同じにおいをしばらく嗅いでいると、そのにおいを感じなくなってしまう性質がある(鼻が慣れてくる状態)。順応するということだろうが、危ないといえば危ない。

5)光学異性体の識別
 受容体はタンパク質がベースであるので、光学異性体を区別できたとしても不思議ではない(味覚も同じ)。リモネンは柑橘類(オレンジなど)の皮に多く含まれるが、ゲラニルピロリン酸から両方の異性体が作られるが、強いオレンジ臭やレモン臭がするのは右旋性のd体であり、l体は、テルビン油のような森の香りと言われる。ちなみにd体はRS表示ではR体である。

 

  

 9月に訪れた北見の名物の薄荷(ハッカ)に含まれるのはl-menthol(1R, 2S, 5R)だが、mentholには3つの不斉炭素があるため23=8個の異性体がある。他の異性体(ジアステレオマーや鏡像異性体)ではハッカ臭は弱い。l-menthol及びその鏡像異性体では、いす形コンフォマーにおいて全ての置換基がエカトリアルに位置する(いろんな配座の中で、このいす形配座が極端に安定となり、平衡論的にこの配座で存在する確率が高い)。

  


 嗅覚は味覚と並んで視覚・聴覚と異なり、直接本能に作用すると言われる。冒頭に書いたように、現在社会では視覚・聴覚が重視されている感があるが、嗅覚・味覚は本来動物として生きていく上での危険をいち早く察知するための、不可欠な感覚である。わが国では平安の高貴な人々が「薫物」という形で香りを楽しむ様子は、源氏物語や枕草子に散見されるよう、香りは文化となり連綿と引き継がれている。下の図は、「お香」に使われる白檀の主な香り成分を示す。


   


 香りで突然過去の記憶が鮮明に蘇ることがある。それは私生活の場合もあるし、仕事上の場合もある。心理学では「プルースト効果」と呼ぶようで、文豪マルセル・プルースト氏の「失われた時を求めて」の中で、マドレーヌの味から幼少期の夏の出来事を思い出す場面にちなんでということだが・・、すみません読んだことはありません。


おまけ(いろんな匂い)
1)オゾン
 これからの季節、アクリルのパチパチのときに発生し、独特の匂いを有する(コピー機周りとか)。放電することで酸素から生成する。先の記事に書いた金木犀の香りで秋を感じるように、オゾンの香り(匂い)で冬を感じます。
  

2)トリメチルアミン
 アミンであるが、親玉と思われるアンモニアより強烈である(におい・かおり環境協会のWEBページによると匂いの閾値がアンモニアは1.5 ppmだが、トリメチルアミンは、0.000032 ppmで圧倒的に臭い。アミンの匂いに接すると、こんな実験を昔やったことを思い出す。トリメチルアミンは水溶液で売っていて、強アルカリを滴下することでガス発生させ、反応系に導入した。1990年ぐらいのことである。ある反応に使用する高分子触媒の合成です(4級アンモニウム塩化、強い陰イオン交換樹脂も同じ反応で合成)。

     

3)リナロール
 ご存知ビールのホップの香り成分。柑橘類のベルガモットの精油はリナロールのR体を多く含む。この精油で香りを付した紅茶がアールグレイで、この紅茶を楽しむと、いろんな複雑な事情から2010年にコミットした化学オリンピックのことを思い出す。
  
(2019.11.3)