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ブラチスラバへの想い

 私たちの年代だと、チェコといえば、チェコスロバキアのことであり、(古いけど)テニスのマルチナ・ナブラチロワ、イワン・レンドルの故郷である。高分子マニアの間では、最初のソフトコンタクトを開発したのが、チェコスロバキアの研究者であることは、そこそこ知られている(チェコスロバキア国立高分子化学研究所のWichterleらの2-hydroxyethyl methacrylate (HEMA)の水を含んだ重合体に関する研究(O. Wichterle, D. Lim, Hydrophilic gels for biological use, Nature, 185, 117 (1960))(HEMAはヘマと読むが、個人的には最初の論文にしか登場していない・・)

     

 私が行ったことがあるのはスロバキアであり、残念ながらプラハのあるチェコには行ったことがない。スロバキアは、北はポーランドとチェコ、南はハンガリーと接し、東にはウクライナ、西にはオーストリアがある。首都は最大の都市であるドナウ川に面したブラチスラバで、オーストリアのウィーンからは50 km程度しか離れていない。1992年11月にチェコスロバキア連邦議会でチェコ共和国とスロバキア共和国の連邦解消法が可決成立し、1993年1月チェコとの連邦を解消(ビロード離婚)し、 2004年5月にEUに加盟した。2009年にはユーロを導入している(もともとのコルナは2005年11月28日に、1ユーロ=38.4550コルナという相場で欧州為替相場メカニズムに参加した。2008年5月7日、欧州委員会は条件が整ったと判断して2009年1月1日にコルナからユーロに移行することを提案し、2008年12月31日にコルナは廃止された。)
 
 トータルで考えてみても大学の職員としては、海外遠征は少ない方だと思うが、その数少ない渡航歴の中でブラチスラバには2回(1999年と2004年)行ったというディープ感を持っている(2010年サッカーW杯南アフリカ大会で、岡田JAPANとともに決勝トーナメントに進出したときは、なんとなく応援していた)。1999年のときは、2ヶ月をヨーロッパで過ごす機会をいただき、ポーランド(ワルシャワ、ウッヂ、クラコフ)、スロバキア(ブラチスラバ)、オーストリア(ウィーン、レオベン)、ドイツ(ダルムスタッド、マインツ、ポツダム)と移動した。ブラチスラバで高分子の構造解析に関しての国際学会があり、その中心的な人物から招待を受け(というか佐藤先生が招待され、代理みたいなものである)、発表してきた(Separation of Styrene-Methyl Methacrylate-Acrylonitrile Terpolymers by Composition Using High-Performance Liquid Chromatography, K. Ogino, E. Kawai, H.-S. Shin, H. Sato, 13th Bratislava International Conference on Polymers, Bratislava, Slovakia, July 4-9 (1999))農工大の現ASEAN事務所所長の河井先生が学位を取った研究の一部で、HPLCによる3元共重合体の交差分別と組成分布の解析である。佐藤先生のアイデアのもと、行われた研究だったが、解析の部分で結構コミットしたこともあって、思い入れのある研究の一つです。ここでの発表は、論文リストの40番の論文のネタになりました)

  
 オーストリアのレオベンという小さな町の大学には、コーネルに留学していたときの同僚が勤めており、学会の後、彼を訪ねるとそのボスの先生が偶然、その学会に出席して、そのときに取ったと思われるメモを見せてくれながら、「お前の発表が一番面白かった」と言われ、とてもうれしかったことを記憶している。


 日本人もマニアな人が何人か集まっていて、3日間ぐらい酒を飲んだりしながらゆっくりと過ごした。学会会場はドナウが流れるブラチスラバの市街地の高台にある会議場だったが、旧市街へも足繁く出かけ、カフェで休んだり、日本食の怪しい店に行ったりした。スロバキアの人たちと食事をするときにはBorovička(ボロヴィチカ)という強い蒸留酒を勧められた(結構美味しいです)。

 ブラチスラバへは、99年のときはポーランドのクラコフから電車で移動した。地図でみると距離はあまりないのだが、国境を越えるあたりで随分山の中を走り、時間がかかった。当時、スロバキアへの入国にはビザが必要で、国境の駅では怖そうな人が乗り込んできて、パスポートをチェックしていた。ヨーロッパの鉄道沿線には、看板もないので、なかなか風情がある。時間も正確といわれていたが、乗り合わせた列車は大分遅れていたようで、車掌さんに「何時に着くんですか?」と聞くと「ウィ アー ライト」と答えてくれた。多分lateということで解釈したが、ブラチスラバ中央駅に着くとあたりは真っ暗になっていた(駅につくと車内の電気はとっとと消されてしまい難儀したものだ)。当時の通貨、スロバキアコルナは国外で入手できなかったので、いかに遅くなったとしても両替しないとタクシーにも乗れないわけだが、駅にはたくさんの両替所がありホッとしたものだ。

 2004年のときは、同じくクロマト関係の学会で3泊5日の比較的強行軍だったが、ウィーンからバスで入国した。ウィーンの空港とブラチスラバのバスターミナルまでは90分ぐらい。わずかな距離だが、いわゆる「自由主義国家」から「旧社会主義国家」への移動なので、見た目も物価も大きく変わっていた(今はどんな感じなのか知らないが、当時のウィーンの物価は体感的には東京より高く、ブラチスラバは相当安いという感じ)。ヨーロッパの都市部特有なのかもしれないがトロリーバスやトラム(路面電車)が発達していてうまく使えば、かなり便利である。2回目のときはかなり使いこなした。

 このときは、研究室を主宰した後で、CO2を溶離液にした共重合体の組成分別について話をしてきた(Separation of Copolymers with HPLC Utilizing Carbondioxide as Eluent,   K.Ogino, K. Shimoyama, C. Kyotani, M. Takahashi, H. Sato, 12th International Symposium, Advances and Applications of Chromatography in Industry, Blatislava, Slovak Republic, June 29- July 1 (2004)→論文リストの72番の論文に。もちろんこちらも思い入れがあります。一つ一つ思い返すと、思い入れのない論文なんてないですね。)

  


 ブラチスラバに限らずどこに行ってもそうなのだが、日本に帰ってくると「やはり日本が一番」とかいって、うどんとかカレーライスを食べるのだが、「外国の飯がまずい(生活に馴染めない)」とか言っているうちは、世界を股にかけて活躍する人間にはなれないと身に染みて感じています・・・。若い人には、「どこでも、何でも(?)、美味しく食べることが大事だよ」と言って回ってます。

追記; 「チェコスロバキアと言えばこれ・・・」ということで、ある方から、ご紹介いただきました。当時は随分と流行ったようですが、記憶の片隅にもなく、何していたのかな・・という感じです。

     



おまけ

歪みのないコインを10回投げたとき、表が3回連続して出る確率はいくつか?
(ド・モアブルの問題です。複素関数の公式が有名ですが、こんな分野にも業績があるそうです)

解答例 n回投げたときの、表が3回以上連続しない場合の数をanとする。

1投目 2投目 3投目
裏              an-1
表   裏          an-2
表   表    裏     an-3
表   表    表     なし

したがって、anan-1+an-2+an-3となる。a1=2(表が出ても裏がでてもよい),a2=4(同じく22=4), a3=7(23から1を引く) より逐次
a4=a1+a2+a3=13
a5=a2+a3+a4=24
a6=a3+a4+a5=44
・・・・・・
a10=a7+a8+a9= 504
全ての場合の数は210なので
(210-504)/210=520/1024=65/128 (答)

(2019.7.1)