本を読むということ
地元の山梨県はご存じの通り四方を山で囲まれている。高校生のころ、物流はもちろん、情報もまた「向こう側の世界」からやってくる感覚があった。そんな感覚を持ちつつ、自宅の裏を走る「中央本線」に乗れば、向こうへいけるんだ、という気持ちで自室の窓から上り電車を眺めたりしたものだ。
どうしてもテストの前になると小説が読みたくなるという現実逃避的な意味合いが否めなかったが、本を読むことの位置づけとして、閉ざされたコミュニティーの中から向こう側の世界へ連れて行ってくれて、まだ知らぬ他人の人生を垣間見る手段として考えていた。
たいそうなことではなく、夏目漱石の運慶の話(夢十夜、第六話)を読み護国寺の仁王門に想いを馳せたり、「こころ」にでてくる万世橋、神田連雀町(今の須田町とか淡路町のあたり)、雑司ヶ谷の墓地や「三四郎」にでてくる「池」の風景を思い浮かべたりしたものだ(高校時代、夏目漱石大先生の作品に傾倒していた・・・)。大学に入り、暇に飽かせて、いろんなところを散策して、「あまりにもイメージ違うな」とがっかりしたり、「本に書いてあった通り」と満足したりした(本郷の三四郎池は、若干残念な感じだった)。
何れにしても、現実世界からの逃避の意味合いであることは変わりはないので、その時々の生活が充実して満足している人にとって、本を読む意義(必要性)はひょっとしたらないのかもしれない。
大学に入り、移動手段が自転車、原チャリから電車に変わり、車内で結構な人が本を読んでいるのを見てそれを見習うようになった(今は違うが・・)。大学の生協、神保町の三省堂、新宿の紀伊国屋、そして神保町の古本屋街など、本とのアクセスが石和時代と比べて圧倒的によくなったこともあって(かつ時間もあって)、読書量は増えたような気がする(買っても読まない本も増えたが)(試験前にはよく読書が進んだ・・)。
農工大で働くようになり、学会などで出張させていただくことも増え、移動時に本を読む習慣は続いたが、昨今は仕事自体が自転車操業に陥り、往路を「プレゼンの準備」等に費やし、復路は疲れ切って寝ているというパターンが確立された感があり、読書量は劇的に減った・・・。モバイルパソコンを持ち歩くようになった功罪という見方もできるが、精神的なスタミナがなくなってきたことの証左だろう(自分の生き様をいい方に向かわせようというモチベーションが減退し、悪い意味で他人の人生に興味がなくなりつつある・・・。よくないなー)。
(小説の舞台を訪ねるのは、やはり楽しく昨年も松山に出張したときには、「道後温泉」を楽しんだりして悦に入っている)
そんなダメになってしまっている自分だが、今、周りの若い人にお薦めする本を一冊挙げなさいと尋ねられたら、小川洋子さんの「博士の愛した数式」(新潮文庫)と回答します。
映画(寺尾聰さん、深津絵里さん)にもなっているし、著名な本なので読んだ人も多いとは思うが、まだの人はぜひ・・・)
あと蛇足だが、夏目漱石大先生など著作権の消滅した作家の作品はフリーアクセスの「青空文庫」でWEB上で読めます。
おまけ
問1(博士の愛した数式にちなんで・・・)
(2019.2.11)