愛とは何か

村田 実貴生 

 これは読者にとっても興味深いことであろう。もちろん、私にとってはなおのことである。
 そして、誰にも答えが見出だせないことであろう。もちろん、私にも見出だせないことである。
 そのことを踏まえた上で、「愛とは何か」を考え、述べていくのが主旨である。読者が、この文から何かを得られれば幸いである。

 中学生の時に、「受験生と恋愛」という題で弁論をしたことがあった。そこでは、
「恋愛をしたいと思うのは、例えば、ある一人の女性を好きになる。と、気にかけてくれるように、その人を見る、近付く、挨拶する、話す。そうすることが喜びであり、楽しみであり、人生の糧であるからだ。また、何でもその人に結びつけてしまうと、何でもしっかりやろうと思うものだ。例えをあげると、その人が毎日朝早くから学校に来て勉強していると知れば、駅から自転車を全速力でとばして少しでも多くの時間を勉強に費やすものだ。その人が同じ高校を志望していると知れば、共に入るのだと勉強をたくさんしようと思うものだ。」
と言った。
 これを言ってから九箇月ほど経つが、愛というものはどうも違うようだなあ、と感じるのである。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みを抱かない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 こう、聖書には書いてある。先人は、私が原稿用紙千枚を費やしても行き着かないことを示してくれるものだと思うが、愛とはこのようなものだ、ということが分かった気になる。
 しかし、雰囲気では分かったとしても、そのように行動するのは大変に難しい。先程の聖書の文の「愛」を「私」に替えて読むとよく分かる。

 けれども人は平気でこの語を使う。私もその一人であった。ある手紙の冒頭、「あなたを愛してしまいました。好きになってしまいました。」と手を震わせて書いた記憶があるが、それだけで手紙を破られても仕方ない。
 私のような過ちを繰り返さないためにも、愛は重いものだと知り続けて生きるべきでないか。

 愛と言うとき、思うとき、それが本当に愛なのか、神に誓って言えるもの、それこそ愛であるまいか。


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