蚕学事始


 今から4000年も前の中国には、すでにカイコの繭から絹糸を得る技術があった。そして、21世紀の今日でも、世界の各地でカイコが飼育されている。

 わが国における蚕糸の歴史は約2000年であるが、教育研究といえるほどのものが始まったのは、泰西の近代科学が導入された明治時代である。蚕病対策、蚕品種の改良などに始まった蚕糸科学は富国政策の後押しを受けて発展し、農学・工学分野のみならずいろいろな産業や文化の面でも多大な貢献をしてきた。東京農工大学(の母体)における蚕糸教育の起源は1874年(明治7年)であり、2003年現在も蚕学研究室の名は残してある。

 蚕糸学という総合科学には栽桑学、養蚕学、製糸学、蚕糸業経営学などの分野があり、カイコに関する科学に限っても遺伝、育種、生殖発生、形態、生理、病理等々の学問分野がある。蚕糸科学の研究で蓄積された知識や知恵は、これまでも発想を転換することによって、想いもよらないような新しい価値を創造してきたが、今後も「形や機能」を見直すことによって得るものがたくさんあるはずである。

 当然のことながら世の中は変わり続けている。時代は変わった。世界で最も大量のシルクを消費しているわが国で、カイコを飼育して生糸を得る産業が業たり得なくなった。盛者必衰の理である。カイコは生糸を生産するだけの虫でもないし、カイコに関する好きな研究を続けていればよいという時代でもなくなった。カイコは多様な生物の内の一員であり、研究にも普遍性を意識した新しい価値の創造に挑戦することが求められている。差別化による価値には限界があるということだろうか。ともあれ、目前の「経世済民」的研究・教育を・・・・・という時代である。       
                         東京農工大学名誉教授 黄色俊一



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