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日本語の難しさについて

 また昔の本ネタになるが、今回は「日本語のこころ-‘00年度版ベスト・エッセイ集」(文芸春秋)(文庫本もあります)に収録されている金田一晴彦先生の「日本語のこころ」の部分。

 「日本語は論理的でない」ことの証左としていくつかの例が挙げられている。

・「お湯を沸かす」、「飯を炊く」→「水を沸かす」、「米を炊く」とするべき
・食堂に入って、「こちらは何になさいますか」と聞かれ、「僕はウナギだ」と答える
・「僕は昨夜実験室に行ったが、誰もいなかった」と言うと、理屈っぽいドイツ人は「お前がいたじゃないか」と言うそうだ・・・(これはあまりに偏屈、自分もいいそうだけど)
・「頭を刈ってください」といってアメリカの理髪店で驚かれた・・・
(「僕は昨年、家を建てました」「病院で注射をうちました」と同類、英語だとhave + 目的語+過去分詞で対応するもの)

 等々日本語の曖昧さが面白可笑しく紹介されている。

 個人的には、やや納得しかねる部分は以下の文章。
以下引用
 ・・・お手伝いさんが台所でコップを手からすべり落として、コップが割れてしまったとする。日本人はこのような時、「私はコップを割りました」と言う。聞けばアメリカ人やヨーロッパ人は「コップ(グラス)が割れたよ」と言うそうだ。もし「私がグラスを割った」と言うならばそれは、グラスを壁に叩きつけたか、トンカチで叩いたような場合だそうだ。
引用終わり

 「コップが割れた」というと、個人的には「ひとりでに割れた」というニュアンスを抱き、机の上のコップが朝起きてみたら割れていたという状況を表す。普通は念力でも使わないとあり得ない状況なので、基本的にはお手伝いさんが正しいと思う。

 私たちも合成の実験などをしていると、誤ってフラスコやビーカーなどのガラス器具を壊してしまうことがあり、多くの人は

  「ガラス器具が壊れました」

という言い方する(上の例だとアメリカ人方式)。お手伝いさんと実験をする人々では、立場が違うといってしまえばそれまでだが、なかなか「壊しました」と言えない。

このいい方には「壊したことに対する責任」が感じられず、なんらかの原因は私たちにあるのだから、「器具を壊しました」といういい方がやはり正しいと思います(再び、偏屈な奴だと思われる可能性大ですが・・・)。

まったく話とは関係ないがおまけの頭の体操です(やはり娘がやっていた算数の問題です・・・)。

1)点Pから出発してすべての弧を1回通ってPに戻る経路の数は?



2)同じく次の図形の場合の経路の数は?












解答例
1)Pから最初に選べる弧の数は4つ→Qに至る。次にQからPへ向かう選択は3つ(後戻りできないので)→Pに至る。次にPからQへ向かう選択は2つ(既に2つは使っている)→QからPへ選択肢は1つ。

4x3x2x1=24  答え24通り

2)単純化するために以下の場合(円が3つの場合)を考える。

1)の場合(円が2個のとき)、弧PQの外側のものを通るとき、円が増えると経路が3x2x1増える。1)の答えの24通りについて6個ずつ増えるので、円が3つの場合は24x6=144通りになる。同様に円が4つになると144x6=864通り、5つになると、864x6=5184通りとなる。 
答え5184通り
(帰納的な推察が要求されてますね。こういう閃きが瞬間的に要求されるというある意味、恐ろしい世界です・・・)