Last Up Date 10/3/1997

碓氷線の歴史

The History of Usui-line


 群馬・長野県境に横たわる碓氷峠は、群馬県側から長野県側にかけて一方的な上りになっている。横川―軽井沢間は水平距離9.2km(駅間は11.2km)に対して、高低差は553mにもなり、この急峻な地形が100年以上もの間、人々を苦しめてきた。

 そもそも信越本線のこのルートは、東京―京都間を結ぶ基幹ルートである東海道幹線鉄道に対して、中山道幹線鉄道の一部として計画された。しかし、山地が多く様々な問題を抱えたため、東京―京都間の幹線鉄道の座は東海道に明け渡し、中山道幹線は本土横断という目的に変更され建設が進められた。高崎―横川間、直江津―軽井沢間と順々に開通する中で、この横川―軽井沢間のみが取り残される形となった。東京・長野・新潟を結ぶ主要ルートとするためにも、碓氷峠を越える鉄道を建設する必要性は、誰から目から見ても明らかであった。

 碓氷峠の一方的な急勾配に鉄道を通すため、路線の計画、選定は難航を極めた。ループ、スイッチバック、ケーブルなど様々な案が検討されたが、アブト(アプト)式が採用され、66.7‰という我が国の幹線では他に類を見ない急勾配を最短ルートで結ぶ路線が選定された。着工から完成まで1年9ヶ月という驚くべき速さで進められたこの工事の影で、500人もの尊い人命が失われたことは、決して忘れてはいけない事実である。

 こうして1893年に上野―直江津間は一本のルートで結ばれ、碓氷線の歴史は幕を開けた。以後104年の歴史は、碓氷峠との過酷な戦いの歴史であった。開通初期のアブト式(SL)時代は蒸気機関車から発生する煙がトンネル内に充満し、中継駅である熊ノ平では、乗客が降りてしまい発車できない事も希ではなかった。1日も早い電化が望まれた中で迎えたアブト式(電化)時代は、走行速度が低いため、増え続ける輸送量に輸送密度が追いついてゆけず、もはやアブト式という特殊な輸送形式は限界にきていた。そこでアブト式の廃止とともに粘着運転へ変更されるのだが、ここで横川―軽井沢間のルート変更が検討された。しかし、工期や工費などの関係からルートは大まかに変更されることなく、粘着運転時代が始まった。旧線の山側に1線を増設して複線とし、中継駅であった、熊ノ平駅は廃止された。その後、更に増え続ける輸送量に対して、協調運転システムが開発され、輸送密度の向上、スピードアップが図られた。しかし、依然として急勾配は残っており、これ以上の輸送密度の向上は峠越えの方法を一から見直さなければならなかった。そして、1997年長野行新幹線の開業に伴い、致命的な赤字を生み出す特殊な輸送形式は廃止され、碓氷線は104年の歴史に幕を閉じたのである。

 アブト式70年、粘着運転34年。この碓氷線の歴史は鉄道史に深く刻まれていく事になるだろう。



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