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昆虫の羽化行動


アゲハの羽化 <拡大> <動画再生>

  昆虫の羽化は,ふつう早朝や夕方に見られる。早朝や夕方は相対的に湿度が高く気温が低いためであろう。外気温が高く湿度が低ければ,サナギの体内に折り畳まれている柔らかい翅は乾燥してしまい,うまく展開できなくなってしまう。従って,昆虫が早朝や夕方に羽化することは,非常に理にかなっていることである。
  昆虫の羽化行動に関する先駆的な研究が,米国のトルーマン博士によって報告されたのは 1972 年であった。彼は,各種の外科的手術を駆使して,昆虫の羽化は脳が直接外界の明暗周期を認識し,その情報を脳内に記憶しておくような機構(羽化時計)があること,そしてその羽化時計からの情報は神経によって体内に伝わるのではなく,液性要因(ホルモン)で伝わることを証明した。これが羽化ホルモンの発見である。

1 カイコガの羽化


カイコガの羽化<拡大> <動画再生>

  カイコガの羽化は,早朝に集中的に起こることが古くから知られていたが,その誘導機構については解明されていなかった。カイコガの羽化行動は,まず腹部の回転運動からはじまる。激しい腹部回転運動が終わると,サナギと成虫皮膚の間にある脱皮液の吸収が起こる。そして,腹部の蠕動運動に伴って頭部から成虫が出てくる(成虫羽化)。繭から脱出するのにククナーゼ(酵素)を口から出し,繭からでた後,翅を展開する場所を探索し,一連の羽化行動が終了する。





2 羽化ホルモン生物検定法

  カイコガの羽化がセクロピアサンやサクサンと同様に,ホルモンで誘導されるか否かを証明するためには,羽化を誘導するホルモンの生物検定法の確立が必要であった。 16 時間明− 8 時間暗の光周条件の下では,カイコガは点灯2時間以内に羽化する。生物検定法は誰でもが容易に出来る方法が好ましく,予想羽化時刻の 8 時間前に検体を注射することで羽化誘導の可否を検定できる生物検定法を確立した。この方法は,注射後 2 時間で結果が判明し, 4 時間で検体の効果を判定することが出来る。このことが後に述べる羽化ホルモンの精製・単離を速めることとなった。また,羽化にとって有効な光波長についての研究で,羽化の斉一化には赤色や紫色よりは,青色の方が有効であることを明らかにした。このことは,生体内(脳自体)で外界の光捕捉を考える際,生物時計との関係で考慮すべき点であると考えている。

3 羽化準備の完了とホルモンに対する感受性

  羽化は成虫化の準備が完了していなければ起こらない。カイコガの場合約12日間で羽化準備は整うが,予想羽化時刻の 1 4時間前に羽化ホルモンを投与しても羽化を誘導することは出来ない。 14 時間前の潜成虫(蛹皮内成虫)にタンパク質合成阻害剤やエクジソンを注射すると,羽化が1日〜2日遅れたり,まったく羽化できなくなる。しかし 10 時間前ではこのようなことは起こらない。即ち,新たなるタンパク質の合成と生体内のエクジソン濃度の低下が,標的器官(神経系)での羽化ホルモンに対する感受性に関与していると考えられる。実験により,新たに合成されるタンパク質の候補が幾つか挙がったが,決定はされてない。また,羽化準備完了という内的なシグナルがあると予想しているが,実体については未解明でのままある。
  一方,カイコガ羽化ホルモンの作用機構に関する研究も同時に行われた。羽化ホルモンがペプチドホルモンであることより,作用機構の場に環状ヌクレオチドの関与(介在)を推測し,c AMP やc GMP の投与実験,合成阻害剤投与実験,c AMP やc GMP 含量の定量と羽化ホルモンとの関係,カルモデュリン作用阻害物質投与実験などを行った。更に神経連鎖を培養し,羽化ホルモン作用時における変動実験も進めた。それらの結果,c GMP が羽化ホルモンの作用発現に関与しており,c GMP 依存性リン酸化タンパク質の合成とホルモン作用とが連動していることを示唆する結果をえたが,その後この研究は中断している。

4 羽化ホルモンの合成と放出 

  各種外科的手術実験で,羽化時刻の枠付けと羽化行動には脳が必要であることを確認し,羽化ホルモン研究のために生物検定法も確立した。研究当初は,羽化を誘導する物質の性状が判らなかったため,カイコガ生理的食塩水( 0.85 % NaCl )で脳を磨砕し,遠心上清を注射した。その結果,生理的食塩水で羽化ホルモンが抽出可能であることが判明した。成虫化に伴って脳内羽化ホルモン力価は急速に上昇し,羽化ホルモン局在部位は間脳部であることを明らかにした。一方,体液中の羽化ホルモン力価の変動を調査し,実際の羽化行動が観察される約40分前には体液中に羽化ホルモン活性が検出され,その分子量は 5,000 〜 10,000 の範囲であることを明らかにした。更に,羽化ホルモンの合成と放出との関係を明らかにするため,脳−側心体−アラタ体連合体の培養系を確立し,脳−側心体−アラタ体連合体での羽化ホルモン活性変動を 14 日間に渡り詳細に検討した。その結果,脳の羽化ホルモン活性は経日的に上昇し,併せて,側心体−アラタ体連合体にも羽化ホルモン活性が高まることを証明した。培養条件下で,脳及び側心体−アラタ体連合体から培養液中に羽化ホルモンの放出が確認された。この研究は,培養条件下での昆虫ペプチドホルモン活性の変動を世界で始めて証明したもので,脳が直接外界の光周期を捕捉し,その情報が生物時計に伝達され,生物時計の支配下に脳から羽化ホルモンが放出されていることを示唆するものである。培養系での時間的な羽化ホルモンの変動の詳細な実験はしていないが,恐らく,体液中で見られる変動と同様に培養液中に放出されているものと考えている。
  更に,後述する羽化ホルモンの精製・単離の研究から,羽化ホルモンの抗体が作成され,羽化ホルモンは腹側脳間部の左右二対 4 個の細胞で合成され,この神経分泌細胞からの軸索は側心体へと達しており,この軸索や側心体からも羽化ホルモンの存在が免疫組織学的研究で明らかにされた。

5 羽化ホルモンの精製・単離

  羽化ホルモンが 0.85 % NaCl で抽出できること,また東京大学・農学部・農芸化学科・生物有機化学研究室(当時)でカイコガを材料に神経ペプチドホルモンの精製・単離・構造決定の研究が急展開でなされていたこと等から,羽化ホルモン単離の共同研究が開始された。研究当初は,カイコガ成虫頭部を出発材料に精製手法の確立を急いだ。研究の結果,羽化ホルモンは分子量 8,000 程度で,熱安定性のペプチドホルモンであることが判明した。次にサナギ頭部を用いて精製を行い,アミノ酸配列の一部を明らかとした。この時点以降,膨大な量のサナギの収集と確保が問題となったが,サナギ頭部77万個から羽化ホルモンの精製・単離・構造決定が行われ, 1991 年62残基からなる羽化ホルモンの全アミノ酸配列構造が明らかにされた。タバコスズメガの羽化ホルモンも62残基であり,50残基は一致していた。

6 今後の課題

  カイコガの羽化行動の一連の様相がほぼ明らかとなってきたが,不明な点は多く残されている。脳が直接光周変化を捕捉し,その情報を記憶し,情報が羽化ホルモンへと変換される道筋はおおよそ判明してきたと考えているが,しかし,脳に存在すると考えられる「時計」との関連は依然不明である。光情報を捕捉する部位も不明であるし,所謂,生物時計の実体も不明である。時計遺伝子の発現との関係に興味がもたれる。また,成虫化が完了したことのシグナルの実体も判っていない。成虫化は各種ホルモンの影響下にある。生体内で起こっている各種事象がシンクロナイズしながら調和が取れた時点で成虫化は完了するのであろうが,生物時計の支配下にある羽化の最終決定シグナルは,脳とどのように連動しているのであろうか?検討する必要があろう。
  羽化ホルモンの場合,羽化が終了すれば脳や側心体−アラタ体中の力価が低下することは理解できるが,前胸腺刺激ホルモンやボンビキシン含量が成虫頭部に高い理由は何故であろうか?羽化後のカイコガの行動,即ち,生殖行動と関連があるのだろうか?羽化ホルモンの研究と並行的に生殖行動とペプチドホルモンとの関係を研究してきてはいるが,未だ説明がつかない状態である。