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休眠とホルモン

1 休眠とは


休眠する昆虫<拡大>

  昆虫の多くは炎暑の時期や厳寒の時期のように,生活しにくい季節では生活活動を最低にしてエネルギーを温存しながら生活環を調節する。これが休眠である。
  カイコは卵で休眠するが,昆虫の中にはさまざまな形で休眠するものがある。同じ鱗翅目昆虫でも,シャクトリガ,メイガなどは幼虫で,サクサンやセクロピアは蛹で,ヨトウガやタテハなどは成虫で休眠,越冬する。
  日本をはじめ温帯地方で飼育されているカイコは普通 1 年に 2 回孵化する(2化性という)。自然条件のもとでは,卵は春の暖気( 15 〜 20 ℃)で孵化して育ち,6月下旬蛾になって産卵する。卵は淡黄色の非着色卵(非休眠卵)で,7月上旬の暑気( 25 〜 30 ℃)の中で発育して孵化し,8月下旬には再び蛾となって産卵する。しかし,雌蛾は黒褐色の着色卵(休眠卵)を産む。産下されたばかりの卵は非休眠卵と同様色素をもたないが,2〜3日経過すると,休眠卵では黒褐色に着色してくる。この卵は胚子発育の初期段階で発育を止めて休眠状態となり,冬の寒気に3〜4か月遭遇すると,胚は休眠から覚めて春の暖気で発育し,孵化にいたる。実際の養蚕現場では,休眠に入った卵を冷蔵庫に保存し,春になると卵を冷蔵庫から取り出し人工的に温度を加えて孵化させる。この間の過程を催青という。それは卵内の胚子が発育を完了すると皮膚一面に黒い色素が形成されて,これが卵殻を透して青くみえるため催青と名付けられたわけである。


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  カイコの休眠性は催青温度によって変化を受けるばかりでなく,1日の日照時間の長短によっても変化を受ける。このことを明らかにしたのは,東京農工大学の前身である東京繊維専門学校第 3 代校長であった, 木暮槙太 教授である。この研究は,昆虫が休眠するか否かが地球規模でおこる一日の日照時間で制御されていることを示した画期的なものであり,この研究から動物や植物における「時間」と「成長や発育」との関係を研究する「時間生物学」が発展してきた。
  胚子期の温度が 25 ℃以上で日照条件(明)が1日 16 時間以上であるときは,それから孵化した蚕が蛾になって産む卵は休眠卵のみである。また温度が 15 ℃以下で日長が1日 12 時間以下( 12 時間以上暗)であれば,それから孵化した蚕が蛾になって産む卵は必ず非休眠卵となる。温度が両者の中間( 18 〜 22 ℃)の場合には,若齢期(1〜 3 齢)が 28 ℃以上であれば休眠卵を産み, 20 ℃以下で日長が 12 時間以下の時は蛾になって産む卵は非休眠卵となる。
  今日では胚子発育時期の温度や照明時間は標準技術として確立されており,年1回孵化させて休眠卵を産ませようとする場合は,催青温度を 25 ℃明( 25 ℃,日照時間を 16 時間以上)とし,非休眠卵を産ませて次代まで飼育を続けようとする場合には, 18 ℃暗( 18 ℃程度の低温で 12 時間以上暗)という条件で胚子発育をさせることにより,休眠卵でも非休眠卵でも自由に産卵させることができる。


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   一度休眠卵として産下された卵でも,産卵後 20 時間たった時点で温塩酸に浸漬して,孵化させることが可能である。これを浸酸人工孵化法という。またこの卵を5℃に冷蔵して,孵化までの期間を 1 〜 3 週間程度延長させることもできる。更に,あらかじめ5℃に冷蔵しておいてから塩酸溶液に浸漬させて孵化させることも可能で,産卵後1〜 3 か月後に孵化させる方法もある。これを冷蔵浸酸法という。何故塩酸なのか?何故休眠が破れるのか?それらの生化学的な説明は現在もなされていない。養蚕現場で確立された技術手法ではあるが, 100 年以上経ってもこの研究課題は未解決のままである。

2 休眠決定の仕組み


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  蚕卵の休眠性はその卵細胞が母親の体内で発育している間に決定されてしまう。つまり休眠性は胚子の形質ではなく,親の形質の一部とみることができる。従って卵が親の体内にある間に休眠か非休眠かの性質は判定できる。先に休眠卵では数日経つと卵色が変化することを述べたが,この色素はトリプトファン由来の色素であり,エールリッヒのジアゾ反応で簡単に判断できる。即ち,雌峨の体内にある卵が休眠するかしないかを判定できる。このことを利用して,名古屋大学の長谷川金作は,休眠性の決定にあずかるホルモン分泌器官の探索研究を行った( 1950 , 1952 )。長谷川は,蛹の体の前部とくに頭部付近に,体内で育っている卵細胞の休眠性に関係する器官があることを発見し,食道下神経節( SG )がホルモン産生器官であるとした。福田宗一は長谷川とほぼ同様な実験結果を得て,蚕の食道下神経節から分泌される物質があり,この物質は発育中の卵に作用して卵を休眠卵にする。また,休眠卵を産むべく条件付けられた雌蛾ではこのホルモンの作用が強く休眠卵を産み,非休眠卵を産むように条件づけられた雌蛾ではこのホルモン作用が弱く不越年卵を産む。更に,食道下神経節の作用を支配するものは脳であり,脳の食道下神経節支配は神経を通じて,促進的にあるいは抑制的に働くと結論した。その後,東京農工大学の 諸星静次郎 黄色俊一( 1969 )も福田とほぼ同様の実験を行い,脳が食道下神経節のホルモン分泌機構を制御していること,そして休眠卵産性蛹の脳は食道下神経節を刺激することは認めたが,抑制することはないとし,抑制は脳・アラタ体複合体が行っているのだろうと主張した。

3 休眠ホルモンの正体

  長谷川金作は食道下神経節が休眠ホルモンを分泌する中心であることを確認すると,直ちにこの物質を単離する研究にとりかかった。このために脳・食道下神経節複合体を材料として,メタノールによる抽出を行った。 15,000 匹の蛹から脳・食道下神経節複合体を取り出し,これからホルモンを抽出した。しかし,これをさらに純粋にするためには,莫大な数の脳・食道下神経節複合体が必要であった。そのために雄蛾の頭部を材料として,これから抽出することとした。休眠ホルモンは雌の体内で作用するが,雄の蛾の頭部にも含まれている。そこで長谷川は, 200万頭もの雄蛾を用いて休眠ホルモンの純化に取り掛かり,休眠ホルモンは分子量 2000 から 4000 程度のペプチドであることをつきとめた。


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  この研究は名古屋大学の後藤俊夫教授が引き続き行い,その結果,休眠ホルモンには DH-A , DH-B の2種類があり,前者は分子量 3300 ,後者は 2000 で,どちらも活性部位は15種類くらいのアミノ酸からなるペプチドであることが明らかにされた。このグループはその後もさらに研究を進め,食道下神経節だけを取り出して材料にするとか,抽出法も従来の有機溶媒に代えて水溶媒を用いる等して,ホルモン活性の極めて鋭いピークを示す成分を取り出すことに成功した。山下興亜教授ら(名古屋大学)は 1990 年に,休眠ホルモンの構造はアミノ酸24個からなるポリペプチドであることを報告した。このホルモンは C 末端が蚕以外の昆虫から単離されたペプチドホルモンと共通している。