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蚕糸技術−今と昔

1 シルクロード

  養蚕の始まりが中国であったことは疑う余地はないであろう。司馬遷(前漢時代の歴史家)の著書『史記』には「黄帝妃養蚕を愛す」という記載があり,元の王禎の著『農書』にこれが引用されている。このことは中国の建国以前から中国には養蚕が存在していたことをうかがわせる。殷代安陽期(紀元前1200年〜前1050年)の遺跡から発掘された甲骨分の中に蚕,桑,糸などをあらわす文字がみられ,また発掘された青銅器に絹織物が付着して出てきていることなどから,中国では遅くとも殷王朝(紀元前16世紀半ばから前12世紀半ば頃まで)の時代にはすでに養蚕があったと考えるのが妥当である。
  一方ローマでは,光沢のある,しなやかな肌ざわりの「セル」という織物が知られていた。セルというのは絹のことである。絹は大変貴重なもので,同一の重量の黄金と交換されるほどの高価だったという。絹は中国からラクダにゆられて数千キロ旅してローマへと運ばれ,一方,西からは玉,宝石,真珠,瑠璃,金銀器,絨緞などが運ばれ長安の都に届けられた。この道が今日シルクロードと呼ばれている。


サマルカンド・ペルセポリス・コンスタンチノポリス・イタリア・フランス・イギリスをクリックすると写真が見られます
推定される蚕種伝播経路と養蚕が行われていた可能性が高いと思われる年代 。      

 

2 養蚕の各地への伝播

  中国で長い間秘密にされてきた養蚕や蚕卵(蚕種という)が,どのようにして現在のように東南アジアを中心として世界へ伝播されたかは興味深いことである。現在では,中国,日本,韓国,インド,ブラジルなどで養蚕が行われているが,気候や風土の違った条件下で,有史以来数千世代以上の飼育がくり返し行われ,多数の品種ができてきた。これらの品種には地域別にいくつかの共通した特徴がみられる。


上の写真をクリックするとそれぞれのカイコの繭が見られます

   中国種 :
幼虫の経過は比較的短く,体形は丸みをおびている。高温に対して比較的抵抗性のものが多い。繭は楕円形で白または金黄色。繭糸は細くて長い。解舒(糸のほぐれ)は概して良好である。一化性または二化性(化性とは一年間に孵化する回数をあらわす)が多い。
  ヨーロッパ種 :卵,幼虫とも形が大きく,幼虫の発育経過は長い。蚕の病気で一番恐ろしい微粒子病に対して感受性であり,ヨーロッパでの養蚕が壊滅的な打撃を受けた理由はこの病気に対する感受性による。繭は長楕円形で,白または肉色。繭糸は繊度が太く,セリシン量が多い。解舒は良好。一化性の品種が多い。
  日本種 :幼虫の発育経過は長い。幼虫斑紋は図版に示したような蚕が多い。日本の気候・風土に適したように,低温多湿の条件に対し抵抗性である。繭は真ん中にくびれのある俵型が多く,繭の色は大部分白である。一化性または二化性品種が主である。
  熱帯種 :幼虫の体形は細く小さい。幼虫期間は短いものが多い。高温抵抗性。繭は紡錘形で,繭綿が多い。繭色は白,黄,緑などのものがある。多化性の品種が多い。

3 日本の養蚕

  蚕が日本へ伝えられたのは2世紀頃と推定されている。『古事記』や『日本書紀』には蚕の記載があり,『魏志倭人伝』には中国への貢物の中に絹織物が含まれていたことが記されている。また 正倉院 の重要文化財には養蚕関連の文物が多い。
  それ以来,幕末の頃まで1600年の間,日本各地で養蚕が行われていたことは疑う余地はないが,養蚕の技術や機織の技術は中国や韓国から伝来したまま長い間それほど進歩はなかったと考えられる。しかし,日本が開国を迫られて(嘉永6年:1853:ペリー来航)から6年後の安政6年(1859),日本と外国との貿易が始まったわけだが,その当時日本から海外へ輸出できるものとしては,生糸,蚕種,茶などであった。慶応元年(1865)の横浜の輸出額のうち生糸が79.4%,蚕種3.9%で,両者合わせると実に輸出額の83.3%は蚕糸類で占められていた。蚕卵(種)が輸出されたのは,蚕の 微粒子病 (原生動物の一種による病気)が欧州で蔓延していたためである。日本の蚕種は品種的に微粒子病に強かった。フランスでも微粒子病が蔓延し,パスツールが南フランス農民の窮状を救うべく研究を行い,微粒子病原虫が卵を介して伝播(経卵感染)することを明らかとし,この病気の防除対策に成功した。
   日本の養蚕は現在低迷しているが,明治,大正の約60年間に技術開発に国を挙げて力を入れ,昭和5年には全国220万戸の農家により40万トンの繭が生産されるにいたった。近代日本経済の礎を築いたのは,養蚕業に負う所が大きいといわれる由縁である。

4 蚕品種の改良

  明治以前の日本では蚕種家が蚕糸技術の指導者であったので,それぞれの蚕種家が独自の見識をもって蚕種の製造を行い,蚕の飼い易さとか,繭形,色沢,繭層の重さ,繊度(繭糸の太さ)などでその性能を競った。
   しかし,明治以後はヨーロッパや中国から蚕種が輸入されるようになり,日本の品種と比較すると異なった特徴を持っている品種もあった。そこでこれら系統の異なった品種間で交雑を行い,その子孫から優れた形質の組合わさったものを選びだす「交雑育種」が試みられるようになった。これは現在の育種の基本であり,遺伝子の交換を人為的に行うのは現在と同じであるが,経験則から交雑品種の有利性を見出した点は, メンデルの法則 が再発見される(1900年)以前のことで,蚕種家の経験だけでかなりのレベルの蚕品種がつくられていたことは注目に値する。

5 一代雑種の利用

  我が国の蚕糸技術に画期的な躍進をもたらしたもう一つは,「一代雑種」の利用である。今日では農作物でも家畜でも一代雑種の利用は広く行われているが,大正の初期頃まではまだその利用価値を認識するものはほとんどいなかった。
   外山亀太郎博士は明治35年(1902)から3年間タイ国政府の招聘で同国に滞在して蚕業技術の研究と指導にあたったが,この間2年ほど蚕の交配実験を行い,動物においてもメンデルの法則が適用できること,また異品種との交雑により著しい雑種強勢が認められることを明らかにした。博士は,帰国後「一代雑種」の飼育が農家にとって有利なことを主張した。
   外山博士は国の原蚕種製造所(後の蚕業試験場,蚕糸試験場)が明治44年設立されると,「一代雑種組合せ」の研究を強力に進め,優れた組合せを次々と発見した。その優れた雑種強勢の知識と有利性は全国的に広まり,養蚕業は非常に発展・飛躍した。同じ頃アメリカでも雑種の有利なことがトウモロコシについて認められ,育種の分野で画期的な貢献をした。