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遺伝子工学

1 組換えDNA研究

  作物や家畜の性能を高めるための努力が長い間続けられて,今日みる年間一万 kg も乳を出すホルスタインや長さ 1800m もの糸を吐く蚕の品種がつくりだされた。いずれも選抜によって有効な遺伝子の集積が行われた結果である。また放射線を利用して,異なる染色体間に付着や転座を誘導する方法で,新しい形質をもったイネやオオムギの新品種も作り出された。
  1953 年ワトソンとクリックにより DNA の構造模型が提案されて以来, DNA や遺伝子に関する知識の進歩には目覚ましいものがあり,生物学にまったく新しい研究手法が開発されるのは必至の状勢にあった。


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  1972 年 P ・バーグ博士は SV40 という腫瘍ウイルスの DNA と,非ウイルス性のラムダ(λ)ファージ DNA とを Eco RI という制限酵素( DNA の塩基配列の特別な部位を認識して,切断する作用をもつ酵素)で切断し,両者の切断端同士を結合させて組換え体をつくり,これを培養細胞の中に戻すと, SV40 のままのときと同様にこの組換え体が細胞内で増殖することをみいだした。続いて, S ・ V ・コーエン博士は大腸菌の2種のプラスミド(自己増殖能力をもつ小さな DNA でいくつかの遺伝子をもっている)を試験管内で制限酵素で切断した後,再結合させたものをふたたび大腸菌に入れて,形質転換(もち込まれた DNA の遺伝子が細菌の遺伝子 DNA に取り込まれ,その作用が発現すること)させることに成功した。更にコーエン博士らはブドウ状球菌の pI258 プラスミド(ペニシリン抵抗性遺伝子をもつ)と大腸菌の pSc101 プラスミド(テラサイクリン抵抗性遺伝子をもつ)とを結合させ大腸菌に取り込ませたところ,この新結合 DNA が増殖したばかりでなく,大腸菌細胞がペニシリン抵抗性とテトラサイクリン抵抗性の両方の性質を示すことをみつけた。自己増殖能力を持つ pSc101 プラスミドと外来 DNA とを試験管内で Eco RI 酵素で切断する。その上で温度処理により,両者のアニーリング( DNA 分子を熱していったん単鎖にした後,冷やして単鎖同士を結合させること)を起こさせる。結合部をリガーゼ( DNA の切断部を結合させる酵素)でふさいだ後,細菌細胞内に戻してやると,この中で pSc101 プラスミドの増殖とともに,新しく取り込まれた DNA の遺伝子も増殖し,しかもその機能を発揮させることができた。
  これらの実験によって,人類は初めて異種の生物の遺伝子を人工的に組換えることができるようになったわけで,種の境界を取り払った意義はすこぶる大きい。しかし,自然界では起こらない新しい組合せをつくることにより,思いもよらない毒性の強い細菌ができたり,薬剤に対する抵抗性の強い菌ができたりしたら,大変なことになる。そこで,世界の科学者に対して「危険性を防止する手段が講ぜられるまで,このような実験を見合わせよう」という異例の呼びかけがなされ,国際会議が開催された。この会議がアシロマー会議( 1975 年2月)で,この会議で@研究者は実験を安全に行うためにどうすべきか,具体策を研究することA各国(もしくは科学者集団)は実験のための基準をつくり,これをそれぞれの責任において,研究者に遵守させること等の申し合わせを行った。
  アメリカ国立衛生研究所( NIH )はこの問題に最も熱心に取り組み,組換え DNA 実験指針を作成して, 1976 年 6 月に発表した。要点は, DNA 組換え体の細菌が研究室以外に洩れることのないよう設備を完備すること(物理的封じ込め),および実験材料としては研究室の条件以外の自然条件下では生存し難い菌株を用いること(生物学的封じ込め)等について,規制案を示したものであった。
  我が国でも「実験一時見合わせ声明」にいかに対応すべきかが問題になった。このとき,田島弥太郎博士は日本遺伝学会長であり,また日本学術会議の会員でもあった。この問題への対処は個々の学会でできることではなく,学術会議で対応処理するのが適当であろうと田島博士は考え,学術会議内にプラスミド問題検討小委員会を設けることとした。
  米国 NIH が安全実験指針を発表したのに力を得て,「組換え DNA 研究は科学者の自主的規制のもとに,充分の安全策を講じた上で,積極的に推進をはかるべきである」という学術会議見解を声明の形で公表することを 1977 年秋の総会で決議し,遅ればせながら我が国でもこの種の研究ができるようになった。

2 インターフェロンを蚕で生産

  蚕の病気に膿病という病気がある。ウイルスによって起こるこの病気は,血球,脂肪組織,皮膚などの細胞の核内に多角体という結晶物ができ,この多角体が体液中に浮遊して体液を濁らせ,膿のようにみえるので膿病とも呼ばれているが,正しくは核多角体病という。このウイルスを改造して,蚕にインターフェロンを生産させる方法が開発された。この研究を行ったのは,鳥取大学の前田進博士である。

【 NPV 】  NPV は核多角体病ウイルス( Nuclear Polyhedrosis Virus )の頭文字三字をとった略称である。このウイルスは数百個が集まって,一つの多角体に封入されているが,蚕に食下されると,消化液中のアルカリ性プロテアーゼにより封入体タンパク質が分解され,中から多数のウイルス粒子が溶け出す。粒子は腸管の壁を通して体腔内に入り込み,脂肪組織などの細胞核内に侵入し,裸の DNA となり,ここで複製,増殖をくり返す。増殖したウイルスはふたたび封入体に包まれて,宿主である蚕が死ぬと,体外に放出される。 NPV のゲノムは二本鎖の環状 DNA で,約 130 キロベース( kb ,塩基の数)の大きさをもつ。これがウイルスの中核をなすタンパク質と結合し,よじれて棒状となり,膜に包まれて個々のウイルス粒子ができる。

インターフェロン遺伝子の組込み

  NPV の多角体遺伝子は感染末期に働いて多角体タンパク質をつくるが,その作用は強力で全タンパク質量の 20 %にも達する。蚕1頭あたりでは 10mg を超す。この多角体タンパク質の代わりに,インターフェロンのような有用物質をこのウイルスに生産させようとして前田博士はこの研究を行った。


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  蚕の NPV は大形であるため,外来遺伝子の挿入は無理で,このため前田博士は遺伝子の組換えによって組込ませる方法をとった。このためにはインターフェロン遺伝子を,まず大腸菌のプラスミドにつなぎ,組換えプラスミドをつくって,これを大腸菌に戻して菌内で増殖させた上で,蚕の培養細胞に野生型の NPV と同時に感染させ,両者の間に組換えを起こさせて,これに移した。 その手順は 大腸菌のプラスミド pUC をベクターの骨格として用い(図 A ),これに後で正しくインターフェロン遺伝子(図 B )断片を挿入して組換えプラスミド(図 C )を作成した。 こうして作成した組換えプラスミドのインターフェロン遺伝子を NPV に移し換えるには,両者を混ぜて,燐酸カルシウム法によって蚕の培養細胞( BmN )に取り込ませる(図 E )と細胞内で組換えが起こり,封入体タンパク質の遺伝子がインターフェロン遺伝子に置き換わった組換えウイルスが生じ,培養液中に放出されて野生型と混在する。この培養液より寒天培地を用いたプラーク法,または希釈法で組換えウイルスを純化クローンとして単離する(図 F )。組換えの起こったウイルスを含む細胞では多角体をつくらないので,澄明なプラークとして容易に判定できる。
  前田博士によると,組換えの効率は 0.5 %程度だったという。このようにして見いだされた組換えウイルスの DNA をしらべてみると,ほとんどの場合,多角体遺伝子の代わりに目的とするインターフェロン遺伝子が入り込んだものであったという。

蚕を用いるメリット 

  このようにして作成した組換えウイルスを培養細胞に感染させれば,ウイルスは細胞内に侵入して, DNA 遺伝子のもつ情報に基づいてインターフェロンを生産する。またこのウイルスを蚕に注射してやれば,このウイルスは蚕体内で増殖して,効率よくインターフェロンを生産することとなる。

  インターフェロンの生産は多角体ウイルスを使わなくとも,組換えプラスミドを大腸菌内に入れてやる方法でも可能であるが,蚕体内で生産させた場合の方が,生産されたインターフェロンの化学的性状がすぐれているという。これは細菌よりも,カイコの方がはるかに高等なので,酵素系がすぐれているためであろう。こうした蚕を用いて有用物質を作らせることが行われており,所謂,昆虫を生産現場(工場)として利用しようとする「昆虫工場」という新しい考え方がでてきた。