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蚕の発育・成長を司るホルモン類

1 蚕の一生

  カイコは5月上旬頃卵から孵化して1齢幼虫になり,4週間ほど桑を食べて成熟幼虫に達し,吐糸して繭をつくる。繭を作り始めて 4 〜 5 日で蛹になり,さらに 10 〜 15 日ほどで化蛾し,交尾産卵して一生を終わる。このわずか2か月にも足りない短期間に,卵→幼虫→蛹→蛾と劇的な変身をとげるカイコは「完全変態昆虫」に属する。

 

2 昆虫内分泌学と蚕


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  幼若ホルモンはカイコを幼虫態に止めておく作用を,脱皮ホルモンは幼虫脱皮および蛹への変態脱皮を誘導。そして全体の作用調節を脳が行なっているというのが今日の定説である。図はカイコのホルモン分泌を行なう器官と,その刺激を受けて実際の生理作用を営む器官を模式的に示したものである。頭部には大きな脳があり,脳と食道を隔てて食道下神経節がある。また脳からはアラタ体という小器官がでている。第一胸節の左右両側には一対の第一気門があるが,これを取り巻いて前胸腺という帯状の器官がある。脳からは前胸腺刺激ホルモン( PTTH と略称される),アラタ体からは幼若ホルモン( JH ),前胸腺からは脱皮ホルモン (エクジソン, Ecd ) がそれぞれ分泌される。

 

昆虫の発育・成長のホルモン制御機構解明に蚕の研究が果たした役割を概説しよう。


図中にある緑の三角をクリックするとアニメーションが見られます<拡大>

  アラタ体 :イギリスのウィグルスワースは不完全変態をするオオサシガメを使って,頭部切断ならびに並体結合(2個体を切断してつなぎ合わせること)を行って,ホルモンの分泌は脳ではなく,脳の後方にあるアラタ体であり,アラタ体は変態抑制ホルモンだけを分泌すると報告した( 1938 )。一方,フランスのブニョールはカイコの頭部からアラタ体を摘出する実験を行ない,4齢幼虫からアラタ体を除けば 4 齢から直ぐに蛹へと変態するし,3齢幼虫からアラタ体を除けば3齢で繭をつくるものがでることを報告した( 1937 )。それ以来アラタ体は世界の学者の注目の的となり,多数の実験が行なわれた。
   我が国では 1939 年,金順鳳がブニョールの実験をくり返し,4齢の初期にアラタ体摘出を行えば眠が省略されて直ちに蛹になることを認めた。また4齢の前期にアラタ体摘出をした場合でも,このアラタ体を直ちに手術蚕に戻してやればカイコは5齢に脱皮する,しかし,数日たってからアラタ体を移植したのでは化蛹してしまうことをみた。金順鳳の研究から脱皮および変態に作用する二種のホルモンが存在するらしいこと,アラタ体は脱皮に関するホルモンを分泌することなどがわかった。

  前胸腺 :化蛹(サナギへの変態)を起こさせるホルモンはどこから出ているのか。この点を明らかにしたのは室賀兵左衛門である。室賀( 1939 )は化蛹できるか否かを決定する中心は前胸腺であると結論した。室賀の発見は福田宗一により直ちに支持された。福田は室賀と同様な結紮による除頭手術のほか,種々の器官の移植実験も行った。すなわち,胸部でしばって後方胴体への前胸腺の影響を絶った後,前胸部にあるさまざまの器官(前胸腺,唾腺,神経節,脂肪体等)を胴体に移植する実験を行い,前胸腺を移植されたものだけが化蛹することを確かめた。さらに福田は,幼虫の眠に必要な物質もまた前胸腺から分泌されることをみつけた。即ち,幼虫脱皮には前胸腺ばかりでなく,アラタ体も関与しているらしいことを明らかとした( 1942 )。これらの研究は,太平洋戦争直後 GHQ が日本の科学技術水準を徹底的に調査研究した結果,欧米に紹介され,高い評価をえた。アメリカのウイリアムスも同様の結果を得ており,昆虫の幼虫脱皮はアラタ体と前胸腺の二つのホルモンが同時に働くことによって誘導され,他方,蛹化や成虫化(羽化),つまり変態にはアラタ体系のホルモンは関与せず,前胸腺のホルモンだけが単独で作用する場合に起ることが結論された。

3 ホルモン調節の中心は脳

  昆虫の変態に脳が重要な役割を持っていることは早くから推定されていたが,ポーランドの昆虫学者カペッチはマイマイガの幼虫を材料として,脳の摘出,体の結紮,神経連鎖の切断など,さまざまな方法で実験をして,変態は終齢期幼虫の脳からホルモンが分泌され,それによって引き起こされるものと考えた( 1922 )。このことは,ウイリアムスによって確認された。


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  カイコを化蛹直後に除脳すると,除脳しない正常の蛹は蛹化後約 12 日( 25 ℃)で羽化するのに,除脳された蛹は 40 日以上たっても成虫化をせず,いわゆる永続蛹となる。このような永続蛹に幼虫,蛹,または蛾から摘出した新鮮脳を移植すると 16 〜 25 日後には羽化するものがでてくる(小林, 1955 )。この実験で,カイコの成虫化には脳が重要であることがわかる。そこで,脳と前胸腺との関係が調べられた。脳は単独で存在した場合には成虫化(羽化)の誘導はできないが,前胸腺が存在すれば羽化できる。前胸腺は脳がありさえすれば働くのだから,おそらく脳からホルモン様の物質が分泌され,この物質が前胸腺を刺激しているらしいこともわかる。このホルモンが前胸腺刺激ホルモン( PTTH )である。脳には A,B 2種の分泌細胞があり,前胸腺を刺激するホルモンはB細胞から分泌され,体液を経て前胸腺に到達すること,またA細胞の分泌物は側心体を経てアラタ体に達し,ここで幼若ホルモンの分泌量をコントロールしていることなどが明らかにされた。
  その後,本学の学長であった 諸星静次郎 教授( 1975 , 1979 )と彼の弟子等(黄色俊一島田 順,東京農工大学教授)は,前胸腺刺激ホルモンは脳から直接体液中に放出されるのではなく,脳→側心体→アラタ体の経路を経てアラタ体に到達し,ここでホルモンとして放出されること及びこのホルモンは前胸腺を抑制したり,抑制を弱めたりして前胸腺の働きを一元的に調節しているという考え方をとった。

4 ホルモンの化学

  前胸腺ホルモン :前胸腺ホルモンは,ドイツのブテナントとカールソン( 1954 )によって初めてカイコ蛹から結晶として単離された。このホルモンは脱皮を誘導するところから エクジソン( Ecdysone ) と命名された。


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この物質を抽出するためカールソンは,日本からカイコの蛹 500kg を輸入し,各種有機溶媒を用いて,最終的に 250 mg の エクジソン の結晶をえた。その後,種々の昆虫からこの物質に似た物質が発見され,さらに甲殻類,クモ類を含めて節足動物に広く共通したホルモンであることがわかった。さらに植物界にも同様な物質の存在が知られた。中西香爾は台湾産トガリハマキからポナステロンを,竹本常松はヒナタイノコヅチの根からイノコステロンを抽出した。しかし,この物質が植物界でどんな生理作用をもっているかはわからない。

  アラタ体ホルモン :アラタ体ホルモンは幼虫形質を維持する働きをもっている。


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いつまでも蛹にならず,幼虫でいるという意味で Juvenile (若々しい)ホルモン=幼若ホルモン( JH )と名づけられた。このホルモンはアメリカのウイリアムスにより 1956 年セクロピアのオス蛾の腹部から抽出され,その後レーラーにより主要成分である JH −1 の化学構造がセスキテルペンの一種であることが明らかにされた。

 

 




  前胸腺刺激ホルモン :脳に2種類の分泌細胞が存在し,それからホルモン様物質を分泌していることはすでに述べたが,このホルモンの正体を明らかにするのは容易でなかった。 小林( 1956 )はこの物質の正体をつきとめようとして,二つの活性成分があることを見いだし,その一つからはコレステロール様のものが単離され,他の一つの活性物質はタンパク質の反応を示すことが市川と石崎( 1961 :京都大学)により明らかにされ,タンパク質性脳ホルモンの存在が指摘された。 1985 年松尾(九州大学)等により,精製物は分子量 18,000 で粗抽出物にくらべて 1,700 倍も高い活性をカイコの永続蛹に対して示したという。
  一方,東京大学のグループは 100 万頭ものカイコの蛾の脳から分子量の異なる 2 種の活性物質を取り出したが,いずれもタンパク質性の物質で,一方は分子量 4,400 ダルトン,他方は 22,000 ダルトンであった。分子量 4,400 のポリペプチドはエリサン(野蚕蛾の一種)に対して強い脳ホルモン( PTTH )効果を示したので,これにボンビキシンという名をつけた。ボンビキシンは化学構造が明らかにされ,A,B2本の鎖でつながったインシュリンによく似た構造をもつことがわかり,さらにボンビキシンのDNAを大腸菌のプラスミドにつないだクローンが作成され,全塩基配列が解明された。これは,昆虫で初めてインシュリンファミリーホルモンが単離された研究である。
  一方,大きい方の活性物質については,東京大学と名古屋大学の共同研究により 1987 年蚕蛾成虫頭部から純化された。このホルモンは,それまで明らかにされていたどのホルモンとも構造が異なったまったく新しいホルモンで, 109 個のアミノ酸から成る同じ2つのタンパク質が結合し,一ヶ所に糖で出来た鎖を結合した,分子量約3万の糖タンパク質である。 1990 年,このホルモンをコードする遺伝子の塩基配列の解析から, PTTH の全アミノ酸配列が決定された。この研究で, 1000 万頭以上の蚕蛾頭部が使用された。
  東京大学のグループ(鈴木昭憲名誉教授,長澤寛道教授,片岡宏誌教授等)は PTTH 以外にも多くのペプチドホルモン(脂質動員ホルモン,体色黒化赤化誘導ホルモン,フェロモン生合成刺激神経ペプチドホルモン,羽化ホルモン,アラタ体刺激ホルモン,アラタ体抑制ホルモン等)の単離及び構造解析に成功し,これらの研究には東京農工大学農学部普後 一教授や同生物システム応用科学研究科安藤 哲教授が共同研究に携わっている。