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富国強兵・殖産興業と蚕
明治政府は、他の多くのアジア諸国のように西洋列強諸国の植民地とならずに、完全な独立国家としての地歩を固めるため、国家基盤の整備を急ぎ、富国強兵の政策を強硬に推し進めた。強兵を育て、維持するための富国であり、殖産興業は富国のために不可欠な施策であった。文明開化と並んで明治政府最大の政策課題とされ、明治期日本の進歩発展を象徴するスローガンとしてもよく知られている。
まず明治政府は、江戸幕府の鎖国政策により大きく遅れをとってしまった日本の産業基盤を再構築するため、政府が先頭に立って、西洋の先進的な産業・技術を導入し、発展を主導していった。
いわゆる殖産興業政策は、工部省及び内務省を中心に進められ、佐渡(新潟県)や生野鉱山(兵庫県)の官営化や、官営工場として富岡製糸場や新町紡績所などの設置が名高い。なお、生野銀山は近々ユネスコ世界遺産として登録されると言う。また、富国強兵とリンクした軍事工業の整備として、横須賀などの官営工場の経営が進められた。
内務省の主導する部分が特に本学との関わりが大きく、初代内務卿として農業振興を主導した大久保利通は本学農学部の前身である東京高等農林学校の設立に深くかかわった。また、財政面から殖産興業に寄与した
高橋是清
はその第2代校長,殖産興業論をとなえた前田正名はその第3代校長となった。
徳川喜久子姫,後の高松宮妃本学ご訪問の折
案内された
渋沢栄一(前列右)
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一方、日本における産業資本の産みの親として知られている渋沢栄一は東京高等蚕糸学校のスポンサーとも言える存在であった。大久保、渋沢両家は奨学金や、邸宅に在校生を招くなど、設立後も繋がりがもたれていた。
富岡製糸場は殖産興業の実を挙げるべく、尾高惇忠 を創立責任者に、お雇い外国人としてフランス人技師ポール・ブリューナを迎え、群馬県富岡の地に、明治5年官営模範製糸場として建設された。その後民間に払い下げられ、半世紀を越える期間、連綿として生糸をつむぎ続けてきた。現在は生野に続けと、地元群馬県が産業遺産として世界遺産に登録すべく張り切っている。
当時は繊維産業の輸出に占める割合が 50%強にもなり、生糸が輸出の中心的存在であった。その後も長く生糸・絹が輸出品の主力として、後に輸出の太宗とも称され、主要な外貨獲得の手段であり続け、それにより蓄えられた富によって強兵が維持され続けてきたといえる。
工学部附属繊維博物館所蔵の富岡製糸工場錦絵<拡大> |
すなわち、蚕を飼い、繭をとり、生糸を繰り、それを輸出して得た松島・橋立・厳島により日清を、三笠や 28サンチ砲により日露を、比叡・金剛によって第一次世界大戦を勝ち抜き、アジアにおける唯一の帝国主義大国としての地歩を固めた。強兵の象徴とも言える「守るも攻めるも黒鐡の浮かべる城」と歌われた大艦巨砲を、わずか二寸の蚕がもたらしたといっても過言ではないだろう。
桑田変じて滄海となり、スズメ海中に行って蛤となるの例えにも似て、蚕変じて大和・武蔵となり、零戦・隼となり、やがては第二次大戦の終戦を迎えるにいたった。
大戦中喫緊の事態となった食料増産のため繭の生産は激減したが、終戦後の復興時には外貨獲得の手段として再度脚光を浴び、役割を果たしてきた。しかしながら、その後の社会経済的な変化には対応する手段も失われ、今後我が国においては蚕変じて兵器となる事態が再び訪れる日は見られないであろう。
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