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地域開発問題と「持続可能な開発に向けた教育」の接点

地域開発問題と「持続可能な開発に向けた教育」の接点

小栗 有子
(東京農工大学大学院)


1−1 課題と方法

1−1「開発」の理解と地域開発の今日的意味

 本稿で扱う「開発」は、自然の結合としての人と土地を分離させ、代わって資本の媒介によって両者を再結合していく過程(資本の社会編成(注1))をその本質にもつ行為として理解している。したがって、「開発問題」とは、土地の利活用をめぐる人と資本の関係に関わる問題である(注2)。「開発」は、地域の経済(産業構造)や地域の暮らしを規定し、あるいは生活環境をも創造する非常に重要な要素を内在させている。そして今日における「開発問題」は、住民の生活文化の維持だけでなく、生物多様性の保全や文化財の保護など多様な価値が一元的な経済的価値としばしば深刻な対立を生む根の深い問題となっている。つまるところ、「開発問題」は資本制社会そのもののあり方を問い、社会の本質を扱う今日的課題であるということがいえる。
 「開発問題」は経済的営みに必ずついて廻る問題であるが、本稿では、日本において特に広範囲な環境破壊の発生原因となっている地域開発の問題を扱うことにする。今日みられる地域開発政策の出現は、戦後復興期の国土総合開発法の制定(1950年)に始まり、以来5回にわたる全国総合開発計画によってその内容が決められてきている(注3)。地域開発政策は、経済(高度)成長路線の政策が生み出してきた矛盾(都市・農村問題/過密・過疎問題)に対して国土のバランスを取ろうとする現象として今日に継承されている。その特徴は「中央集権的外来型開発(注4)」(宮本憲一)の言葉に象徴され、地域開発政策が抱える構造的欠陥を生み出す根源に住民の民主主義の不在があることが指摘されてきている(注5)。そして、一向に変化の兆のみえなかった日本の地域開発政策も、バブル期の日本型リゾート開発の失敗を境にこれまでの開発方式も含め政策転換が求められている。この転機は、国民意識の変化や地球時代の本格的な到来が強力な後押しになっている。
 変化の兆は、「多軸型国土構造形成の基礎づくり」を目標に掲げる「21世紀の国土のグランドデザイン」(第5次全国総合開発計画;1998年)に感じ取ることができる。「中枢」と「依存」の都市間の階層構造を「自立」と「相互補完」へ転換させる考えが、「地域の選択と責任に基づく地域づくりの重視」や「多様な主体の参加と地域連携による国土づくり」(4つの戦略;多自然居住地域の創造、他)の戦略として打ち出されている。これは、「無機質で画一的な地域形成が進んだ結果、各地の文化や生活様式の多様性が失われた」(第1部第1章第2節)ことが、過密・過疎問題を発生させたとする反省に基づいており、代わって「地域固有の文化や交流の歴史、豊かな自然」(前掲)が十分に生かされる国土軸形成が政策目標として登場したのである。さらに5全総では、自然環境の保全、回復による循環型の国土形成や国土の安全や暮らしの安心の確保を基本課題の柱に据えている点が特徴となっている。そして、この計画の実現には、「多様な主体の参加と地域連携」による取組みが期待されている。そのため公的主体が負うべき環境整備や支援策が、公的主体と民間主体の間、さらに公的主体内の国と地方の役割分担とともに明示されている。(第1部第3章第1節)
 この動きは、従来型の中央集権的外来型開発の変容を予感させるものであり、地域開発が半世紀を経て新たな「目的」「方法」「主体」をもちうるか否かの段階にきているといえよう。


1−2地域開発の行方と持続可能な開発の関係

 次に日本の地域開発政策を国際的視野から再度捉え直しておこう。
 開発問題を巡る国際的な動きとして、リオ・サミット(環境と開発に関する国連会議1992年)の国際合意以来、持続可能な開発(SD)概念の定着化とその枠組みの強化が進行している。日本でも、環境基本法(1993年)の制定を機に徐々に循環型社会に向けて国内法の整備がなされてきている。他方、5全総の中にも持続可能な開発を意識した文言が多く散見される。
 ただし、対外的には、激化が予想される大競争時代に備えた戦略としての位置づけが色濃い。根底には国内の「豊かな生活と雇用の安定を確保」(第1章第1節)するためには、活力ある経済社会が不可避とする思想があり、国際競争力の強化が基本的課題の重要な柱となっている。ここで問題とされるべきは、この戦略がSDの実現と整合性をもちうるかどうかである。そもそも持続可能な開発の概念が登場する背景には、南北国家間の鋭い対立があった。問題の本質は、富と貧困という世代間不公平の現実の中にあった。持続可能な開発の実現をどの圏域で考えるかにも左右されるが、持続可能な開発の具体化は言われるほど容易なことではない。
 日本の開発政策は、戦後一貫して経済成長主義と民間活力の増進を前提に実施されてきており、地域開発も経済効率を主軸に据えた一元的価値に基づいて遂行されてきた。これは国の政治経済制度並びに社会文化的風土、すなわち国民の精神構造に支えられてきたといってよい。そして、新たに経済的豊かさと精神的豊かさの同時実現が政策目標に掲げられている。(第1部第1章)地域開発政策が第一に住民の暮らしを支える経済活動(所得や雇用)と直結する問題であるだけに、経済的価値以外の価値に膨らみをもたせることは容易ではない。それを実現していくのは、個々の開発現場であり、一人ひとりの国民である。今、足元の開発のあり方から、「持続可能な開発」の内実を考え、議論し、創造していく一人ひとりの力が求められているといえよう。


1−3地域開発と「持続可能な開発に向けた教育」の接点

 さて、地域開発が資本制社会の本質に関わる問題であるならば、地域開発の問題は、近年、支配的パラダイム(Western paradigm)の転換も視野に入れた「持続可能性に向けた教育」(EfS)や「持続可能な開発に向けた教育」(Education for SD)とどこかで交差することを示している(注6)。ただし、地域開発の問題の解決における持続可能な開発に向けた教育の意義が問われることはまだ稀である(注7)。今後、持続可能な開発に向けた教育の内実をより豊かにしていくためにも、開発の現場で具体的な問題解決を担う主体に求められる力量やその解決の条件について明らかにしていく作業は不可避になってくると思われる。
 そこで、本稿では、地域開発にかかる主要な問題(自然乱開発・生活文化の崩壊など)をその固有な条件により乗り越えた沖縄県読谷村の開発実践を事例に取り上げ、開発の主体に焦点をあてながら開発過程を分析することにする。そして、その開発の思想に学び、また合意形成のあり方からも示唆を得ることで、従来の地域開発に代わるオルターナティブな開発に求められる知恵を探り、持続可能な開発に向けた教育との接点を考えることにしたい。
 この際注記しておくべきことは、筆者は教育をformal education(定型教育)、informal education(非定型教育)、non-formal education(不定型教育)の3類型(注8)(P・Hクームス)の複合として捉える視点をもっていることである。本稿で扱うのは、非定型教育と不定型教育である。


2 沖縄県読谷村の開発問題とその実践

2−1読谷村の特徴

 読谷村は沖縄県本島中部西海岸に位置し東シナ海に突き出た半島をもつ三角形の形状をしている。村面積は3517ha、北に恩納村、南は嘉手納町に接し、南北に伸びる15キロに及ぶ海岸線を有している。村は今なお村土の46%が米軍に接収される基地の村である。そしてこの基地こそが、村の存立を規定し、今日まで村を形づくるのに絶大な影響を与えてきた。読谷村は沖縄戦の上陸地点であり、一時は村土の95%(復帰時73%)が基地に囲い込まれ、田畑を奪われた住民は戦前の専業農家から否応なく軍雇用者に変質していく。それに伴って村の産業構造も一転する。他方、行政機構が未整備であった沖縄では、戦後復興(郷土の復興)が琉球王朝時代から続くシマ(字)を単位で進められるが、特に過酷な条件下にあった読谷村では、連帯意識を強めた共同体が村を構成する基礎単位として存続していくことになる。また、産業構造の変化に伴って共同体(字)における生産と生活手段の分離が進行する一方で、字「事務所」が公民館へ様変わりすることで共同体機能を刷新する(注9)。公民館への移行は、民主主義という新たな思想の移入を意味し、共同体運営機能がより民主的なものとなり、村民に広く学習機会の提供の場を保障することになる。
 そうしたなか、1972年に沖縄は日本復帰を果たす。27年間に及ぶ異民族支配下にあって経済社会の復興が本土から大幅に立ち遅れた沖縄では、その格差を是正するため多額な公的資金が開発三法(注10)に支えられて投入される。読谷村でも1975年の海洋博の頃、道の整備や工場の立地等の多大な影響を受けている。この時期にアスファルト工場建設に反対する住民運動が、建設予定地に隣接する地区や読谷村職員労働組合を中心に議会をも巻き込んで盛り上がりをみせる。この事件は、読谷村における初の日本型地域開発の幕開けを意味しただけでなく、政変も引き起こし「基地返還」と「平和行政」を掲げる革新村長・山内徳信が登場するきっかけを与えることになった。


2−2読谷村における開発条件の成立

 その後、読谷村に自発的な地域開発を推し進めることを余儀なくさせたのは、復帰後次々に返還された基地跡地の存在であった。これら返還地のほとんどは、戦前は田畑に利用していた私有地(一部入会地)で、接収後は軍用地料の支払いや一部黙認耕作によって生産性を維持していた。したがって、大規模な基地返還は、軍施設従事者の大量解雇と同時に軍用地料の支払いの停止を意味し、読谷村民に大きな経済的打撃を与えることになったのである。
 海岸線にそった一帯の基地が、時期をずらしながら細切れに返還されている。この一帯はボーローポイント射撃場跡地と呼ばれ、米軍による実射演習が長年にわたり実施され、自然は原形を留めないほど壊滅的な破壊を受けていた。そして、基地接収地に関しては、戦後十分な地籍調査がなされないまま放置されていたため、地籍明確化作業抜きには基地の跡地利用を具体化する術もなかった(注11)。そこでまず、返還されたブロックごとに地主会を結成し、集団でその解決(地籍明確化と跡地利用)に取組むことになる。地主会は、最大規模で184haに791名(2028筆)の地主によって構成されるもので、返還面積の小さいブロックでも150名以上の地主によって構成されていた。原形をとどめない財産権の回復は、法的根拠のない状態からはじまることになる。この作業を行政も支援するために、村長を会長に「読谷村返還軍用地対策協議会」を設置し、村と国が協議するなかで、後に「沖縄地籍明確化法」(1977年)となる法整備の基礎を整える。(「読谷村トリイ通信施設の地籍確定調査に関する協定」)この新たな法的根拠を背景に、各地主会毎に地主会役員が地主間の利害対立の調整に入り、一筆一筆を「集団和解方式」によって地籍の確定を進めていった。この作業に要した期間は5年であった。その後、いよいよ第二の検討課題である土地の跡地利用の具体化に着手していく。
2−3開発の計画と土地改良事業の導入

 跡地利用に関する計画が初めて登場するのは、日本復帰前夜に始まる「残波リゾートゾーン開発計画」(1973年)の中においてである。この計画書は、復帰準備のために設置された村役所企画室が企画し、実業家や学術研究者に委託されたものであった。そこで、その後の開発にも重要な意味をもつ開発計画の事前原則が打ち出される。内容は、@開発の悪影響がでないように完全チェックする A開発は地主の利益を守るとともに、村民全体のためになるようにする B土地は売らないで、貸すことによって収入が得られるようにする、であった(注12)。そして最も重要な原則が土地の「一括利用」であった。すでに地籍調査の段階から開発業者の訪問を受けていたが、土地の一括利用原則は地主の間に早くから浸透し固守されていた。数百名に及ぶ地権者の意思の統一は容易なことではないはずだが、戦前から続く伝統的な字(現行政区)ごとにまとまりをみせている。
 当初の計画案では、土地を一括利用するリゾートゾーン(ゴルフ場)が考えられていた。ところが、なかなか広大な土地を一括利用する業者が見つからず、計画の変更を余儀なくされる。跡地利用に関しても地籍調査の時と同様、地主は村行政の知恵を借りている。そして、その時提案されたのが、土地改良事業を導入することであった。ただし、大方の地主の本音としては、農地よりも資産価値が期待できる都市的利用を打ち出すことにあった。全地主が合意しなければ土地改良事業は導入できない。このとき私益を超えた妥結点となったのが、「米軍に強制接収され改変させられた土地である。一端は戦前の元の姿に戻そう。農地に戻してからまた利用を考えればいいではないか」であった。最終的に土地改良事業の受益面積は500ha以上に昇り、軍用地跡地は農地として蘇ることになった。また、受益面積280haに及ぶ農業用水ダムも総事業費78億円で建設している。
 他方、海岸線沿いの一部の土地が農業不適地という理由から土地改良事業から除外されたため、ここの部分だけは地主会の役員が中心となって、独自に土地の利活用を考えていくことになる。また、村の最北端にある景勝地である残波岬地区においても、将来の開発予定地として農地ではない利用が模索されることになった。そして後に、前者は、10年の歳月をかけて読谷リゾートへ、後者は、交渉より2年で残波岬ロイヤルホテル並びに残波ゴルフ場へ姿を変えることになる。


2−4リゾート開発とその特徴

 読谷村において開発問題がより深刻化するのは、民間資本の動きが海洋博後に一端沈静化した後、再び第二波が1987年の総合保養地域整備法(リゾート法)の制定前後(バブル期)に沸き起こったときである。断崖絶壁の残波岬を抱え、沖縄海岸国定公園の指定を受ける風光明媚な海岸線が、米軍より大幅に返還されたこともあり、リゾート開発の絶好の投資先として土地買収熱の矢面に立たされることになる。リゾート開発のピーク時の2年間(1989年〜1991年)に15キロの海岸線に117件もの開発申請が役場に殺到し(注13)、海岸線の高台を中心として開発業者が住民の常識の5倍以上もの高値で買い占めがおこなわれた(注14)。にもかかわらず、読谷村では、リゾート法制定以前に開発許可のあった2つの開発業者以外は開発(外来資本)を認めていない。リゾート開発先進地として乱開発された恩納村に隣接し、同じ重点整備地区(恩納村海岸地区)に指定を受けておきながら実に対照的な対応をみせている。
 読谷村では、早くから乱開発防止条例としての性格をもつ「読谷村土地開発行為の適正化に関する条例」(1981年)の制定や用途無指定(白地地域)の開発を規制するため「読谷村中高層建築物等指導要綱」(1990年)を制定するなどの措置をおこなっている。一方、リゾートホテルの実際の立地にあたっては、恩納村が「環境保全条例」(1990年)を制定する以前に、リゾート開発がもたらす諸問題に対して先駆的な環境対策をホテル側に課し、地域住民の利便性を確保するために幾重もの条件をつけてホテルと協定を結んでいる。また、国が定める開発基準に頼るだけでなく、地域の実状にあった【上乗せ】や【横だし】基準を設けるために個別協議をすすめている。と同時に、ホテル誘致に伴って発生するインフラ整備の費用もできるだけ開発業者に負担させる知恵を働かせ、これについても協議の重要案件となっている。
 これらの結果、読谷村では、リゾート開発が引き起こす環境破壊や住民生活文化の崩壊が最小限に抑えられており、バブル崩壊による倒産・撤退等の経済的混乱からも免れている(注15)


3開発の主体の属性と開発の思想

3−1開発の主体の分類

 では次に、開発の主体に焦点をあてて、いかなる思想と合意過程によって土地改良事業やリゾート開発が導入されたのかを検討していくことにする。
 開発には必ず、土地をもつ地権者(地主)、資本をもつ開発業者、そして、公権力をもつ行政が「開発の主体」の中心となる。そして、読谷村の場合、地主が往々にしてその属する行政区の住民の代表を兼ねているため、行政区とも深いかかわりをもつ。また、リゾート開発の経緯をみてみると、上述以外にも商工会、漁協、農協の参画がみられる。さらにいえば、村内各種団体(婦人会や青年会等)や議会なども絡んでくることになる。ただし、本稿では、開発の主体を地権者に絞りこみ、どのような思想にしたがって、いかなる合意形成の過程によって開発が実施されたのかを明らかにする。


3−2地主の性格と二面性

 読谷村における地主の性格をおさえるためには、いくつか注意が必要である。  一つは、沖縄の歴史的特殊性(旧慣温存政策)がもたらした所有面積の階層性の問題と関連する。一方で広大な土地を独占し、年間何億円という軍用地料を受領している地主がおり、他方で大半の地主は数百坪を所有し、年間数百万円の地料を受領している。このことは、同じ「地主」というくくりの中でも、受領額の幅から生ずる階層性や経済事情が個々の地主によって異なることを意味し、「地主」を同一視できない点が指摘される。
 二つは、地主は一般的には「法的人格」としては「私的所有者」であるが、読谷村の場合は、必ずしも「私的所有者」にのみに留まらない側面をもっている点である。つまり、土地に対する「私的」所有者意識のほかに「共的」所有者意識(コモンズの意識)をあわせもつのである。この意識構造は、自己と土地を所有関係で結ぶ私的所有者意識がある一方で、「先祖−自己−子孫」をつなぐ時間の連続性のなかで土地を捉える共的意識、さらに、部落(字)という強固な「共同体」の存在が、土地を空間的連続性のなか捉える共的意識の三構造によって形成されていると考えられる。沖縄では農民が土地の「私的所有者」となるのは、1903年(土地整理法)以降のことであり、決して歴史は長くない。にもかかわらず、トートーメー制度にしたがって長男が先祖からそっくり「預かり受ける土地」であるため、自分の世代で勝手に処分することに対する抵抗感が強いようである。ここには、土地は「先祖から受け継ぎ子孫に引き継ぐ土地」であり、したがって「自分だけ」の土地ではないとする世代間にまたがる所有意識が見られる。一方、地主会が行政区(字)ごとのまとまりを維持していることが示すように、部落(字)の一員という帰属意識が土地の私的な利用に制限を加え、その結果土地の公共性が保たれている。
 そして、この「私的」と「共的」意識の二面性は、個人によってそのいずれかに比重(価値)があるものと考えられ、この意識には世代間格差がある。地主の二面性が比較的強いのは高齢者世代であり、若い世代になると「私的所有者」としての権利主張を有し、この独特な二面的性格は薄れているといえる。


3−3地主会役員と地主

 地主会には必ず数名の地主会役員を置いている。そしてこの役員に選ばれる人は、部落(字)の「有力者」や「有識者」と呼ばれる人が多く、議員や区長経験をもつ、あるいは現職の区の役員である。地方に特有な「有力者」(「有識者」)は、その土地所有面積(資産)との相関関係がみられるものの、地域のリーダーはそれだけに還元されるものではない。地域(部落)の発展を考え、実践してきた人であり、その意味において字民からの信頼が厚い。したがって、二面的性格からいうと土地に対する「共的」意識が強い構成員であることがいえる。彼らは戦後復興のため「共同作業」(共同労働)の中心を担ってきた存在であり、また地籍認定作業では「協同労働」を中心的に進めてきた存在である。開発問題もこれまでどおり字の発展を第一に思考する延長に位置づくにすぎない。そのためにあらゆる情報をかき集め、可能性について検討している。
 一方、役員に対して一般の地主は、知識も情報もなく、土地を有効に利用する術をもたない者が多い。役員に対しては、意見がない、もしくは意見があってもいえない「客体」として対極に位置づけられる。ただし、特に若い世代に多いが、自分の意見をしっかりもつ者、あるいは、権利のみ主張する者等、地主会内部の価値観や見解は必ずしも一様とはいえない。したがって、土地の利用をめぐる対立は顕在化する。そして、その調整を行うのが役員の重大な任務である。


4合意形成

4−1地主会内部における合意形成

 すでに確認したとおり、基地の跡地利用は「一括利用」原則が地主の間に浸透していた。これは、開発の効果を考えて導き出された結論であった。そのため土地改良事業のときも、またリゾート開発のときも、最大で778名の地主が、そして少ない場合でも200名以上の地主が、同意書に署名したことになる。ではこのとき、どのように合意形成がおこなわれたのか。形式的には、地主会総会の決議によってすべては決定されている。だが、実態は必ずしも民主的なプロセスとは言い切れない。
 ある地主は漏らす。「地主のほとんどは、総会する前から、説得して歩いていた。上がまとめた話をおまえら賛成せいとくる」。「地主はみんな幹部の後ろに隠れて、幹部ににらまれてものがいえん。地主会は幹部会みたい」。そして同意を取りに来る場合には「ほらここに印鑑おせ。ここに名前かけばいいさ」とやってくる。これを拒否すると、従業員や不動産、地主会役員が何度も説得しにやってくる。そればかりではない。「友達誰?」と聞かれ、友人からも電話がくる始末であった。同意を反対した人の中には、農業を続けたい人、墓を移動させたくない人、海に下りられないことを理由にする人等がいた。跡地利用に関して自分の意見をのべる機会もなく、聞く耳もなかったと述懐する。そして、同意しない人は、最後は金をつぎ込まれて説得されていく。未同意者の中には、本来こだわっていた理由から、金額を吊り上げることに執着するように変わっていってしまう者もいた。最終的には、「利己的」「欲深い」という汚名がつくことになってしまう。
 一方、読谷リゾートを誘致した地主会会長は、「海も自由、ホテル内も自由に歩けるのだったら誘致しよう」というのがホテル誘致構想の始まりであった。会長と交渉人(業者)の間では、「こうならないと土地は貸さない。こうすれば貸すよ。」と物事が決まっていく。さらに地域の発展のためにどうすればよいのかについて、様々な知恵を交渉にやってきた者に学ぶ(注16)。会長は「人間は決してひとりでは生きていけない。自然環境とのふれあい、人とのふれあいの中で生きている。だから、社会のためになることをやらなくてはならない」と語り、「地域のためになることはどこまでもやらねばならない」と力がこもる。そして、会長は、リゾート開発に反対する者を「個人主義だから反対する」と断言し、「昔は、最後は賛成多数でやる。反対者はもう文句言えない。ついていくしかない。」と戦前を振り返る。「われわれは昔からの塊。70歳くらいはもう昔の心はなくなっている。利己的になっている。私たちの時代はそうではない。皆で一緒にやる。」と今を嘆くのである。
 この両者は、いずれも開発に10年の年月をかけた読谷リゾートの場合の「合意形成」の話である。最も両者の構図が顕著な例であるが、他の場合も少なからず地主会役員による説得という手法はまかり通っていた。


4−2行政区の機能と合意形成

 読谷村の場合、開発計画の過程で行政区(現在23字)の存在を抜きにすることはできない。地主の二面的性格(私的所有者であると同時に住民代表)を支えるのが、この個々の部落(字)の存在である。そして、「事務所」が「公民館」機能に変わったことの意義が、ここでも認められることになる(注17)。原則的に各字(区)は最高議決機関である戸主会をもち、その下に区長、会計、書記がおり、さらに各種委員会が字の運営にあたっている。特に行政委員会(審議委員会)は、通常の「議会」にあたる機能をもち字運営の審議・取り決めをおこなう重要な任務が課せられている(注18)。このような組織が存続し機能していることで、地域住民(区民)の意思統一をはかるのに不可欠な協議の場が保障されていた。
 また、原則的に、跡地利用に関する行政区の参加の余地は、その字有地(財産区)にあるといえる。各字は、杣山(そまやま)としてもっていた山林やそれに類する浜辺が復帰後も共有財産として残されており、リゾート開発計画地は、その財産区がしばしば対象となった(注19)。この処分をめぐっては、区政委員会(審議委員会)で基本的に協議がなされ、戸主会で合意を取りつけるかたちとなっている。ただし、区民が地主あるいは地主会役員を兼ねているため、跡地利用に関しても地域(区)と遊離した形の開発にはなっていない点が指摘できる。積極的に区長を地主会役員に登用する場合も、リゾート開発のなかではみられる。
 跡地利用に対して決定権をもつのはあくまでも地権者としての地主であるが、地域住民(字)の意向は区長や区政委員会を介して集約され、地主会に働きかけるシステムが機能していた意味は大きい。区長の発言は区民の代弁であるため地主会とても無視はできなかった。


4−3地主と行政の間の合意形成

 地主と行政の関係は、厳密にいうと地主会役員と一般行政職員の関係となる。そして、両者の協調関係は、地主会によってかなりの温度差があることが認められる。特に対照的な対応を見せたのが、読谷リゾートと残波岬ロイヤルホテルをそれぞれ誘致した地主会である。前者は渡慶次・儀間跡地利用推進協議会が地主の取りまとめ会であったが、こちらの場合は、地主会と開発業者が一年もの間独自に交渉を進めた後に行政職員と接触をしている。他方、後者の残波地区地主会においては、最初から行政と連絡を密にし、誘致する企業の選定も双方が協議しながらすすめている。
 このような違いは、行政の土地利用計画における位置づけの違いによるものと解釈できる。すなわち、単独行動に出た渡慶次・儀間跡地利用推進協議会の方は、その所有地での開発予定はもともとはなく、行政計画のなかでは海と海域を保全する為の緩衝地帯に定められていた。他方、残波地区に関しては最初から開発予定地としての位置づけにあり、計画段階から地主の意向が反映されていた。この違いは、村長並びに行政幹部が残波地区出身だったこととも無縁ではないと思われる。渡慶次・儀間跡地利用推進協議会が手がけたリゾート開発においては、確かに行政は出遅れることになったが、一端開発申請を受けつけると、今度は「部落(字)のための発展」を第一に考えられた開発計画が、「村全体のための発展」を考えた内容へ高められていくことになる。
 行政が関わりだすことによって、開発に関する合意形成に参画する構成員が、地主以外へ広がりをみせることになる。たとえば、開発予定地に隣接する陸と海の関係者(土地改良区と漁民)やホテルの立地が直接経済的な影響をもたらす商工会や農協に対しても協議の輪の中へ招き入れている。また村当局は、2つのホテル業者と結んだ開発協定書にしたがって「地域連絡協議会(注20)」を設置し、21世紀にむけて地域住民と事業者がともに発展できるようにと協議の場を創出している。
 読谷村の開発過程で行政が果たしたリーダーシップは大きい。実働部隊は行政職員であったが、村長の理念や方針、それに基づく職場環境の柔軟さがそれを支えていたといえる。また、この時点ではまだ地主には知識も力もなく、行政に頼らざるを得ない状況にあり、連携がとりやすかったともいえよう。


4−4地主と開発業者の合意形成

 地主と開発業者の関係もやはり、地主会役員と開発業者の関係となる。地主会の存在は、開発業者にとっても個々の地主を説得し同意書をとる作業が省けるメリットをもっていた。他方、地主側としても団結して開発業者と交渉の場につけるため、要求を出す上でも効果的である。地主の二面的性格はあるものの、実際の地主と開発業者の交渉の場で焦点となるのは地料の額である。ホテルが立地するまでは、地域発展のために様々な要求を出していたが、一端立地すると地主は地料を受領する「地権者」へ徹する点が見られる。


5考察−読谷村の実践に学ぶこと−

5−1読谷村の実践の総括

 読谷村における開発過程は、慣習を色濃く残す共同体の論理によって展開されている。その論理とは、一つに共同体の利益や発展を重んじる思想が支え、二つには共同体の有識者にすべてを委ねるという封建的な意思決定システムに基づくものである。ただし、読谷村の場合は、「私的所有者」意識も地主の間でははっきりと読み取れるだけでなく、自らの意思を表明しより民主的な合意形成を求める動きがみられた。したがって、読谷村の実践は、封建的な村社会を思わせる意思決定システムと私的所有者を基礎単位とする極めて現代的な(現代日本らしい)意思決定システムが混在していたということができよう。そして、読谷村の実践そのものが、必ずしも完全なものであるということはできない。だが、旧・新が混在する意思決定のあり方から学ぶべきことは多く、そのいくつかを次に整理しておく。


5−2マイノリティーの参加の意義

 読谷村の開発計画の過程から排除されている住民がいた。リゾート開発過程の場合を取り上げてみると、このとき少数派ではあったが反対者がいた。反対する根拠は、一つに文化財の保護の視点に立った見解があった。読谷リゾートでは、2.3キロに及ぶ海岸線に102,000坪の土地が開発予定地であった。そしてその海岸線の砂丘には、広範囲にわたる埋蔵文化財が確認されていた。なかには、沖縄では珍しい重複遺跡や沖縄初の5000年前の焼石遺構が発見されている。また、海岸線の段丘を掘り込んで造られた掘込墓が150基近く並んでいた。地主のなかでも地主外の地域住民のなかでも文化財や墓を保存すべきとする立場から反対の意を表明している。ところが、これらの少数派意見は、協議の案件には上らず、実質黙殺されていた。
 二つに、都市近郊における畜産による悪臭公害と農協豚舎の撤退問題があった。読谷村では、復帰までどの家庭でも宅地内畜舎を有し、畜産と畑作の循環農法が一般的であった。ところが、日本に復帰することで「農村生活環境の整備」の一環で宅地内畜舎の集団化が多額の補助金を投入されて実施されることになる。ここから、農家と非農家の混在が生まれてくる。そして、農協豚舎の撤退事件は、畜舎の集団化を余儀なくされた豚舎の近くにリゾート開発がやってきたことに端を発していた。悪臭は、公害として新聞でも叩かれ、リゾート開発推進者であった農協組合員、議員、行政OB、地方有力者から手紙が送りつけられる等の窮地に農協職員は追い込まれていくことになる。農協としては断腸の思いで豚舎の閉鎖を決めた。
 以上、二つを例に読谷村の開発過程に参加できなかったマイノリティーについてとりあげてみた。ここでわかることが、両者が少数派ではあるが、大切な「価値観」に基づいた開発に対する見解であるということである。前者は文化財保護の視点に立ち、後者は農業の視点に立っている。ところが、読谷村の実践では、開発の経済効果にのみ価値が付与されており、「開発」における価値の多面性は否定されている。発展を経済指標だけでなく、文化的、社会的な発展概念で捉えること、あるいは、持続可能な農業やグローバルな意味での地域社会の持続的発展を考慮するには至っていない。そして、開発時ではマイノリティーであった意見ではあるが、それらが貴重な問題提起を投げかけていることを見逃してはならないであろう。


5−3世代間・世代内の共的意識

 次に土地の利用に関わる開発の思想についても考えてみたい。読谷村における地主の属性分析から<土地に対する「私的」所有者意識のほかに「共的」所有者意識(コモンズの意識)をあわせもつ>点は、開発問題を考える上で非常に重要である。その意識構造を、<自己と土地を所有関係で結ぶ私的所有者意識がある一方で、「先祖−自己−子孫」をつなぐ時間の連続性のなかで土地を捉える共的意識、さらに、部落(字)という強固な「共同体」の存在が、土地を空間的連続性のなか捉える共的意識の三構造によって形成されていると考えられる>と分析したが、今日的に土地と所有者の関係を考えるとき、完全に忘れ去られている、あるいは関係があることが切れた状態になっていることに気づかされる。その原因の究明は丹念にみていく必要があるが、戦後復興のための政策が地域共同体の解体をすすめ、資本制社会の浸透が地域共同体に依存しなくとも暮らしていける生活様式を確立させたことと深く関係する。それに伴う自由の拡大は人々の生活圏を広げる一方で、土地と地域共同体の結束を弱めていったといえよう。
 阿部治氏は、持続可能な社会を世代間の公平と世代内の公平を同時に実現することであると主張している(注21)。そして、この世代内の公平を先進国の生活水準で達成しようとすれば、世代間の公平とは矛盾せざるを得ない。地球資源も環境容量にも限界があるからである。両者を矛盾なく実現していくことが今世紀人類に課せられた使命である。そこで、まず「開発」の現場において、「世代間の公平」と「世代内の公平」の実現を意図した「開発」が模索される必要がある。そして、これは抽象的な「人類」を対象としなくともよい。むしろ、「私」と先祖や子孫との関係、さらに「私」の仲間(地域住民)との関係を考慮することが大切なのではないか。
 行政職員は次のように語っている。「経済の論理で物事を考えないと先のことまで考える余裕がでてくる」と。そして、そのことが、開発に関しても「あせらず、ゆっくり、じっくり時間をかけて考えていけばよい」という読谷村ならではの地域づくりの思想に通じているように思われる。


5−4「開発」と持続可能な開発に向けた教育

 読谷村の実践を取り上げ、その考察をおこなってきた。本稿の目的は、現実の「開発」の現場から、持続可能な社会の構築に向けて求められる人々の力量や知恵を探る事にあった。そして、「マイノリティーの参加の意味」や「世代間・世代内の共的意識」の有意味性について明らかにした。これを環境教育的視点から捉えるならば、環境教育において育成されるべき人々の能力や技能に加え、その目的や意味について示唆を与えるものではないだろうか。
 読谷村の開発過程において、環境教育は自覚的に実施されてはいない。しかし、それが直ちに持続可能な開発に向けた教育がなかったとはいえまい。読谷村では、地域資源の保全と活用が地域住民(区民)のみならず、次世代のことも考慮しながら開発計画をすすめている。開発協議が繰り返しおこなわれ、必要があれば勉強会(不定型教育)も開かれている。また、開発協議に継続的に参画すること自体に非定型教育としての形態を十分持ち合わせているものと思われる。なぜならば、協議を通しての課題発見やその共有化、それに基づく価値観の変容が見られるからである。
 一方、読谷リゾートの開発では、「マイノリティー」の主張は当事者と十分に協議する問題の提起にまでは至らなかった。しかし、その声が協議の場で取り上げられたならば、地域における文化財の意味を再考し、その価値を広く共有する可能性があったのではないか。あるいは、都市近郊における畜産業の衰退を一人ひとりの生活と結びつけて考える機会となっていれば、地域における持続可能な農業を思考するきっかけになったのではないか。持続可能な開発は、「環境問題」と「南北問題」が密に関連していることを明示しており、実際「私」が直面する環境問題は、それ単独で存在することはなく、他の問題と構造的に連関している。あるいは、他の地域や世界と関連しているのである。したがって、環境問題の解決には問題の構造的理解が解決の前提とならねばなるまい。そして、このプロセスそのものを持続可能な開発に向けた教育として位置づけていく必要があるのではないか。
 読谷村は、近年着実に地域共同体の求心力が薄れ、地主の二面的性格は益々みられなくなっている。つまり、「私的所有者」意識や「経済的な一元的価値」によって動かされる一面的な社会が浸透しつつある。地域コミュニティの復活の兆がみえない今日、放っておくだけでは改善される余地はないように感じる。そこで、個別の課題意識や多様な価値観から出発する開発のあり方(地域のあるべき暮らし)が、より普遍的な価値(普遍的な共通課題)へ高められ、一定の合意を形成していくことがなお一層求められる。この努力抜きに地域開発政策の方針転換を実現していくことは困難であろう。
 本稿では、持続可能な社会を構築していくために求められる哲学や思想(人と人・人と自然・人と社会の関係性の回復)に立ち返える持続可能な開発に向けた教育のあり方に焦点をあてた。そして、持続可能な開発に向けた教育は、今後とも教育実践との間だけでなく、実際の社会実践との間ともフィードバックを通して考えていく必要があるように思う。


                                                 (おぐりゆうこ)


 ※本稿で扱った読谷村の実践は2000年5月から2001年12月にかけておこなった筆者のヒアリング調査に基づいている。





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