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狭山丘陵における新しい市民環境運動の萌芽
〜北川かっぱの会の歩みに学ぶ〜

狭山丘陵における新しい市民環境運動の萌芽
〜北川かっぱの会の歩みに学ぶ〜

降旗信一
(東京農工大学大学院)


はじめに

 日本の自然保護運動は、明治から戦後にかけて尾瀬沼の水力発電用ダムに対する学者や一部の知識人による反対運動から始まり、1960年代後半から1970年代に入ると一般の市民が自然保護の主役となったといわれている。(注1)1980年代に入るとゴルフ場ブームやリゾート法制定など、開発圧力が高まる一方、沖縄県石垣島の空港建設反対運動、白神山地の青秋林道建設反対運動など、開発の一部差し止めや計画の白紙撤回へと成功する運動も現れはじめた。だが、この間、市民による環境保護運動は、対立、闘争、告発の形をとらざるをえず、その結果、企業活動や行政の政策に対して「監視役」や「歯止め役」としての機能を果たしてきた。(注2)公害反対運動や自然保護運動は公害対策基本法(1967年制定)や自然環境保全法(1972年制定)等の制定に影響を与え、その後、国際世論にも後押しされながら環境基本法(1993年制定)という一定の成果につながった。環境基本法および環境基本計画では、環境の保全に関する教育、学習の主体の多様化を意識しており、国、地方公共団体、事業者、国民、民間団体といった、各主体が相互に協力、連携しながら、自主的積極的な取り組みを促進することを求めている。(注3)このようなパートナーシップが求められる背景には、環境問題についての過去の経験を通して、行政や行政の依頼を受けた「専門家」だけでは複雑な全ての問題を解決する力はないという認識があるものと考えられる。問題を解くカギは、市民の中にいる隠れた専門家や、熱心な学習活動により専門的な知識を身につけた市民の参加、そして彼らと行政側との協力関係の構築にあるといえる。(注4)
 狭山丘陵において1995年に設立された「北川かっぱの会」は、その前身的存在であった1991年設立の「自然を守ろう!北山公園連絡会」の行政対立型市民活動とは一線を画した参加・提案型の市民運動として出発した。この会は、市民運動でありながら河川改修や計画に関する高い専門性を有し、1998年12月に同会が東村山市長に提出した「未来の川へ・北川復元プラン原案」は、東村山市の河川行政に対して一定の影響力を与えている。


1 狭山丘陵における市民環境運動の歴史と現状

 狭山丘陵は、新宿から電車で1時間ほどの40キロ圏内と都心から近く、青梅から東方へ扇のように広がる武蔵野台地の西寄りの中央に位置しており、東京都と埼玉県の境の5市1町にまたがっている。東村山市、東大和市、武蔵村山市、瑞穂町が東京都に、所沢市と入間市が埼玉県に属しており、戦後の都市化の波でつくられた住宅地に囲まれている。一方、狭山丘陵を水系としてみると、荒川の支流である新河岸川水系の不老川、砂川、柳瀬川などが狭山丘陵を源流としている。
 高木(2000)(注5)によれば、狭山丘陵の自然破壊の歴史は、大きく4期に分けられる。すなわち、多摩湖(1927年完成)、狭山湖(1932年完成)という2つの貯水地が建設され狭山丘陵が都市近郊の観光地として脚光を浴び始め主に西武グループをによるレジャーレクリエーション施設が建設された第一期、1960代後半から1970年代にかけて住宅地造成が盛んに行われた第二期、1980年代から早稲田大学の進出決定と、この問題を契機とする自然と文化財保護運動が大きな広がりをみせた第三期、そして有料老人ホームや建設残土捨て場や資材置き場など行政の許認可を必要としない小規模開発の1980年代後半以降の第四期という区分である。
 これらの開発の歴史の中、狭山丘陵では、「北山の自然を守る会」「狭山丘陵の自然を守る会」など様々な自然保護団体が活動を行っており、またこのような団体間のネットワーク組織として1980年には「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」も結成された。一方、水系の市民活動グループも、河川流域ごとに数団体が活動しており新河岸川流域全体では、水系グループだけで40を超える団体が活動を行っている。また、このような水系の市民団体間のネットワークとして「柳瀬川流域川づくり市民懇談会」や「砂川堀流域川づくり懇談会」なども設立されている。


2 北川かっぱの会の誕生

 北川は、東京都東村山市を流れる新河岸川水系柳瀬川流域の一支川で、源流を多摩湖(村山貯水地)に持ち、武蔵野台地を流下する流域面積2.13㎢、流路延長3.3q、川幅4〜11mの小河川である。現在の北川は、ほとんどがコンクリート護岸2面張りで固められており、昭和40年代以降開発された住宅市街地を流れる都市河川である。しかし、北川の流域には映画「となりのトトロ」の舞台モデルとなった八国山緑地や、田んぼと湿地のたたずまいを残す北山公園もあり、まだまだのどかな自然が残っている。

 北川かっぱの会は、このような北川の流域復活、北山公園一帯の保全と再生を目的として結成された。(注6) 1995年6月の発足時には10名だった会員も2001年現在200名を超えており、同会事務局長の宮本善和氏によれば、いまや市内でも有数の自然保護団体として、広く一般市民、行政、議会関係者にも知られ、大きな期待が寄せられているという。(注7)
 北川かっぱの会発足の背景には、東村山市都市整備部みどりと公園課が計画した北山公園再生工事問題があった。この計画は、田んぼと湿地のたたずまいを残す自然豊かな公園を田んぼは芝生広場に、湿地や池はコンクリート製の池に、水はポンプによって人工循環に、という人工公園化事業の計画であった。この計画の問題点は大きく2つあった。1つは、計画の必要性の問題であり、もう1点は計画の進め方の問題である。そもそもこの事業は、北川流域の下水道が完備することで北川の流量が激減し、川から水を取水していた湿地と田んぼが維持できなくなるのではないかという市行政側の「思い込み」に端を発していた。また、市は、この計画を1989年に作成していたが実際に地域住民が、この計画の存在を知ったのは、1991年の8月に公園内に突然設置された「公園整備のため休園します」の看板によってであった。同年10月にようやく市報において計画の全体像が発表されたが、この時点で既に第2期工事までほぼ終了し、第3期工事の着工直前であった。(注8)
 この工事に対し、1991年8月に「自然を守ろう!北山公園連絡会」が発足し、北山公園の原風景と自然を守ろうとする市民の活動は広がりを見せた。活動の中では24時間の流量観測を市民が数回にわたり行いデータ分析の結果、行政が危惧するように北川の流量は激減しないことが科学的に示され行政の事業の見直しが迫られた。(注9)  一度走り出した行政の事業を止めることは至難の業だが、北山公園連絡会の地道な活動と行政との粘り強い話し合いは、最終的に工事計画の大幅な見直しと、「今後は市民と充分話し合ってやっていく」との市側からの回答をもたらした。(注10)
 北山公園問題が一応の解決をみた1995年3月、北山公園連絡会の会報であった「北山田んぼ通信8号」が刊行された。そこには、1991年からの一連の運動の成果とともに、今後は北山公園に相応しい「自然の復元」を行政と市民が共に考えていく必要性が訴えられていた。しかし、北山公園連絡会の活動は、当初の目的を一応達成したことや、長年の行政対決型の運動の疲れで気落ちする者や寝込んでしまうものが出たことから組織としての見直しを迫られていた。1995年3月18日には同会主催の「北山ほっとほっとパーティ」が開かれたが、この日を境に中心メンバーの1人だった三島悟氏がまず脱会する。続いて北山公園連絡会の土屋敬一代表を除き、中心的に関わっていた3名の会員(宮本、渡辺、森内の各氏)が三島氏に続いた。この翌月の4月には東村山市長および市会議員選挙があった事も微妙に影響していたが、彼等が北山公園連絡会としてではなく新しい団体という形でスタートしようとした最大の理由は、過去の行政対決型の北山公園連絡会のイメージを引きずったままでは、行政と市民が連携する新しい運動の構築が難しいという理由からであった。なお、三島氏によれば、当時、三島氏は長良川河口堰反対運動にも参加されており、その経験の中で対立構造を前提とした運動の限界を感じたことが1つの要因だったという。(注11)
 こうして、市長選も一段落した1995年5月27日、北山公園連絡会のメンバーだった10名が、三島氏を代表として新しく「北川かっぱの会」を設立した。合い言葉は「今度はもっと楽しくゆっくりとやろう」であった。北川かっぱの会は特に会則を持たず、「ゆっくり、楽しく、したたかに(良い意味で)」を共通語にして、@大人も子どもも川を楽しむA川のことを良く知り地域の人にも伝えるB川をよくするためにできることから行動する、という川づきあい運動を行うこととなった。(注12)
 なお、北山公園連絡会は、三島氏ら主要メンバーの脱会の結果、1995年3月以降、事実上の活動停止状態となり今日に至っている。


3 北川かっぱの会の環境保全活動

1)「川づきあい」から「人づきあい」へ

 北川かっぱの会の環境保全活動は一言でいえば「川づきあい活動」である。北山公園連絡会での経験を経て、新しい運動をスタートさせた彼等が、まず最初にとりくんだのが、「北川クリーンアップ作戦」と呼ばれる川掃除であった。それもかつて対立していた行政の担当者たちとともにであった。川掃除のあとは北山公園で楽しく一杯やりながらの“川談義”が交わされた。1995年5月の設立以降か、北川かっぱの会では、川掃除の他、川の学習会である“かっぱサロン”、フィールドワーク“かっぱ探検隊”などの行事の開催の他、情報・交流誌である“かっぱ通信”の発行など、従来の北山公園連絡会とは異なる北川との楽しい“おつきあい”を重ねてきた。このような様々な川づきあい活動は、企画の性格によって参加者の顔ぶれが異なるのが特徴である。宮本事務局長によれば、新住民と旧住民の交流も含め、「川づきあい」から「人づきあい」が始まったとともに、この「川づきあい活動」を通して様々な情報が寄せられ、活動の1つ1つが北川復元に向けたワークショップになっているという。

 なお、北川かっぱの会では前述の単独事業の他にも、行政や他の市民団体とのパートナーシップの構築に向けた活動も行っている。先の北川クリーンアップを行政と共同で行っている他、やはり行政と一緒になって「水と緑の市民懇談会」を立ち上げ、市内の自然保護団体が一同に会し環境問題について話しあう場を設けた。北山公園連絡会の当時は、市民との対話を意識的に避けてきた市行政だったが、このような懇談会に僅かながらも予算措置がされるなど行政側の意識も大きく変わってきたといえる。


2)北川復元プランへの取り組み

 1997年3月1日〜2日、北川かっぱの会世話人合宿が約15名が参加して開かれ「今後の方針についての集中的な検討」が行われた。この合宿では、会員が100名を超え組織が一気に拡大した事に加え、前年7月に水と緑の市民懇談会がはじまり行政との対話路線のコアが出き始めてきたこと、わんぱく夏祭りが始まったこと、さらに柳瀬川流域との広がりをもってきた事などから、あらためて将来を見通した戦略や方針が検討された。95年、96年の基礎固めの時期を経て、いよいよ具体的に行政を動かして自分たちの目ざす川の復元をどうしようかという事が射程に入り、復元プランをどのような分担と手順で作成するかという議論がなされた。(注13)97年4月発行のかっぱ通信(vol.12)では「2000年をめどに清流復活のプラン策定へ」という大見出しが提示されている。なお、この年(1997年5月)に河川法が改正され、自然環境の保全がしっかりと位置付けられた事も背景として忘れてはならないだろう。(注14)
 北川かっぱの会では、これまでの活動で得てきた北川の情報や住民の意見を整理・分析するとともに、1998年の3月〜9月にかけて計4回にわたり“北川復元プラン検討会”を開催し、夢を実現する方法について市民レベルが話し合いを行った。その結果、北川復元の基本コンセプトを「北川の自然の営みを蘇らせ、魚や鳥、昆虫等の在来の生き物を育む豊で清らかな流れを取り戻し、“かっぱ”が潜んでいた原風景を復元する。そして子ども達が川遊びから多くを学び、地域の人々の健やかな交流を育む、そんな北川との川づきあいを発展させ、次代に愛を込め受け継いでゆく」とし、このコンセプトを実現するための具体的な手法を検討し、提案した。


3)北川復元プランの反響と川端会議

 1998年11月、北川かっぱの会は、「未来の川へ・北川復元プラン」を東村山市政策室に提出し、市の主な職員を対象にした説明および提言を行った。さらに同年12月3日に「未来の川へ・北川復元プラン」出版記者会見を行った。この時の政策室の室長は、建設局の部長経験者でもあり、かつ現在は助役となっているが、この室長をはじめ市側の反響は大変好評であり、新聞各紙にも大きく報道された。「未来の川へ・北川復元プラン」の発表がこの時期になったのは、翌年度の市の予算編成作業に間に合わせたいという意図がためである。結果的に翌(1999)年度の予算編成には間に合わなかったが、翌々年の2000年度には約250万円の予算が措置され、「北山公園親水施設及び北川の整備についての意見交換会」(通称:川端会議)というワークショップが実施されることになった。
 この川端会議は、東村山市が1999年に策定した緑の基本計画の一環として位置付けられる「北山公園親水施設整備事業」とリンクしており、「北川および北山公園周辺の自然環境の保全・復元の方向や方法について行政、市民などが一同に会して話し合い、知恵を出し合い、具体的な提案を行う場とする事」、「話し合われた提案を実現するためパートナーシップの精神のもと、行政と市民の協働作業の仕組みづくりを行う場とする事」の2点を目的としている。具体的には、東村山市、近隣自治会、小学校関係者、自然保護団体(水と緑の市民懇談会参加団体等)、関心ある市民、利用者など(公募)、専門家(適宜参加)、北川かっぱの会(「北川復元プラン(原案)」作成者)というメンバー構成で、2000年7月から12月にかけて計6回開催された。(表1)また、会議の様子や次回の予定は東村山市都市整備部みどりと公園課が発行する「川端会議通信」の形で市民に公開された。
 なお、この事業にあたっては同会が任意団体で市からの受託事業を受けれる体制にはなっていないため、同会とも人的交流のあるコンサル会社が業務受託をしている。なお同会では2000年度の実績を踏まえ、2001年度にも継続の事業を提案したが市の財政事情により新規事業が全て凍結されたため川端会議は中断された状態になっている。しかし、いずれにしても北川かっぱの会と東村山市の環境行政とのパートナーシップは、今後より一層強化されていくことが予想される。なお、東村山市としては「かっぱの会」の専門性を高く評価しており、「ありがたい存在」ではあるが、同時に多様な市民の中では「かっぱの会」も1つのグループという位置付けであり、特に地主は河川整備計画にたいし、やや異なるスタンスをもっているので、そこは市が調整役となる必要があると認識をもっている。また、「かっぱの会」を市側が評価するポイントの1つに「議員を使わずに直接、行政と交渉する」ということがあるとの指摘もある。(注15)この点は、新しい市民運動の特徴と言えるかどうか、今後さらに検討したい。


 以上、川を舞台にした行政連携型の市民環境運動について北川かっぱの会の事例を中心に報告を行った。本稿のまとめとして、北川かっぱの会が行政との連携を可能にした要因を列記してみたい。

  @川掃除などの活動を行政と一緒に行うことで信頼関係を構築した。
  A一団体だけで行動するのではなく、「水と緑の市民懇談会」など、機会あるごとに他団体との連携をよびかけた。
  B様々な川づきあい活動を通して、多様な顔ぶれの市民の参加を可能にし「川づきあい」から「人づきあい」を実現した。
  C同時に川づきあい活動を通して、無理のないペースで川に関する長期的な情報収集活動を行った。
  D「未来の川へ・北川復元プラン」に代表される高い専門性を有し、行政担当者からの信頼を獲得した。

 最後の専門性について、補足しておきたい。北川かっぱの会事務局長の宮本氏は、本業では建設コンサルタント会社に勤務する技術者である。「未来の川へ・北川復元プラン」の作成にあたり宮本氏の存在が大きな役割を果たした事は否定できないであろう。しかし、宮本氏は、この作業を業務とは全く切り離した形で実施しているのであり、明らかに宮本氏は一東村山市民として、この活動に参加しているといえる。北川かっぱの会が宮本氏のような人材を得られた背景には、「川づきあい」から「人づきあい」へという北川かっぱの会の理念が大きく影響しているものと考えられる。
 現在、北川かっぱの会ではNPO法人化も視野にいれながら今後の組織のあり方を模索している。今後の新しい展開にも注目していきたい。


4 考察 〜環境教育学と環境政策学との接点を探る〜

 筆者の市民環境運動に対する基本的な視角は、その運動が、市民に対して、いかなる自己教育的な意味合いをもたらし、いかなる実践につながり、またその成果が運動の目的にいかに反映されたという点にある。「環境を守るための人格形成に関する計画化・組織化のプロセス」という問題は環境教育学や社会教育学の一部で議論されている。このような問題が、環境を守るための政策のあり方や政策決定プロセスの問題といかに交差するかという問題意識に基づいた研究は、環境運動の社会学的・政策学的な分析の1つの重要な方向を示しているといえるのではないか。
 その具体的な方向について、現時点での明確な回答があるとはいえないが、生活環境主義の立場から、市民によるまちづくり論を展開する鳥越(1997)(注16)は、参加動機による「市民参加」(市民による行政参加)の分類を@制度的参加-「地域責任型」、A目的的参加-「利害関係型」、B価値的参加-「まちづくり型」の3類型に分類している。「制度的参加」とは、市民として当然の権利・義務としての市民参加であり、市民の代表として市域の自治会長や婦人会長を召集する場合はこの型の市民参加になる。「目的的参加」とは、たとえば高層マンション建設にともなって周辺住民が日照権、違法駐車などの被害を想定して市役所へはたらきかけるような参加型である。「価値的参加」とは、自分たちの住みよい地域社会をつくろうとする動機から参加する「まちづくり型」である。鳥越は、このような類型化をした上で、「価値的参加」は「目的的参加」の転じたものが少なくないと次のように述べている。「公害などである地区の生活環境が著しく悪化し、住民が市役所に苦情を述べたり、また組織化して市役所におしかけたりする目的的参加をしていた地区が、その目的が一定程度成就したり、また成就のプロセスの段階で、自分達の本来望んでいる環境とはどのようなものであるかを共に考え、討議するようになったのが、価値的参加の成立の経緯になる場合が多かった。彼等は自分達の望ましい地区の青写真を討議することになり、それは価値的参加へと移行することになる。<中略>行政の側にもそのような住民の主体性を鼓舞する動きがみられ、その住民の青写真を大切にしながら、行政が実現可能な修正案を提示するという姿勢が強く出てきた。そのことがこの価値的参加が最近のあたらしい傾向として定着しつつある理由であろう。」(鳥越前掲書)
 今回とりあげた、行政への不信感や対立感情から出発した市民運動が「川づきあい運動」を転機として「北川の復元」という地域環境創造運動として行政の政策にも関与する形へと展開されたという事例からもこの指摘を裏付ける事ができる。
 北川かっぱの会が「川づきあい運動」として実施した学習活動、討議、フィールドワークなどは、市民環境運動成立のために「価値的参加」を促進するための重要な環境教育実践であったとみなす事もできるのではないか。
 以上の分析から導かれる1つの仮説は、市民環境運動の成立にとって、「価値的参加」を促す環境教育実践の在り方が、その運動の成否にとって重要な要因となりうるという考え方である。


 最後に、今回の調査にご協力ならびに資料をご提供いただいた三島悟氏、宮本善和氏をはじめとする北川かっぱの会の皆様、調査に同行していただいた松村幹子氏、桜井正喜氏、田中哲紀子氏(いずれも東京農工大学農学部)、本研究に対し活発な議論を通して様々な示唆をいただいた三上直之氏(東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻)をはじめとするAGSUT Student Community「環境政策ワーキンググループ」の皆様、東京農工大学社会調査ゼミ(トトロゼミ)の皆様、ならびに調査全般についてご指導、ご助言いただいた朝岡幸彦東京農工大助教授、永石文明東京農工大学非常勤講師、鬼頭秀一東京農工大教授に感謝申し上げたい。


                                                 (降旗信一)





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